母親にもいえなかったはなし

これから書くことは根性論者の父親の影響もあったのか、何故か今の今まで誰にも言えなかったこと。実際問題父親の言う通り大抵の事は根性で何とかなったし現にこれも15年くらい隠せてきたくらいだ。
何が原因かなんて実際わからないから〇〇のせいだ!!なんてことは言うつもりはなくて、とりあえず今までいえなかったからこれを機に書いてみるかぁと着地点も見当たらないまま書いてみることにした。
だってなんかnoteって憧れるじゃん。
小春とかのめっちゃおもしろいし。

何から書こうかと思ったけど大前提僕はどうも心と身体が人より弱い。
小さい頃はそんなこと無かった気がするんだけどよくよく考えてみるとどちらも小5の時スキーで事故って環軸椎亜脱臼っていうまあ簡単に言えば首の1番目と2番目の骨が脱臼してグラグラすることで脊髄を圧迫しちゃう状態になった頃からだなと最近気づいた。むしろそれまでは身体は強かったと思う。

もしかして心の弱さとなにか関係があるのかなと思い少し調べてみたけどまーじで全然わかんなかった。でも脊髄圧迫することとか、ダウン症によく見られるとか、なんとなく関係あんじゃね??って僕は思ってる。知らんけど。

まあそれはいいとして、大袈裟に聞こえるかもだけどぼくの人生が大きく変わったのはこの頃からだった。

小5の冬。家族で行ったスキーで大コケした。
かなり派手にコケて、WiiFitのスキージャンプで失敗した時みたいになった。
だれがわかるんだこの例え。
まあ要するに雪だるまになるレベルでゴロゴロ転がるようにコケたわけ。
その時はびっくりしたくらいでなんとも思ってなかったんだけど、水曜日の朝。普通にご飯を食べて学校に向かったらちょっと尋常じゃないくらい気持ちが悪くなった。今思えば強い吐き気。でも元々体が強かったのもあって記憶がある年齢になってからは吐いたことがなかった僕はこれが吐き気だと気づけなかった。気持ち悪ぃ。。とは思ってたけど 吐く なんて言う選択肢は毛頭なかった。

忘れもしない水曜日1時間目。月に何回かくる習字の授業の中、僕は引き続き強いままの吐き気に机に突っ伏していた。最初は耐えてたんだけどいよいよしんどすぎて保健室に行こうと立ち上がって廊下に出た。なんかもう友達とか先生とかなんか言ってるけど雑音。周りの音が大きく、それでいて遠く感じた。
廊下に出て2、3歩歩いたところで僕は派手に嘔吐した。
僕は何が何だかわからなくて戸惑ってる間に先生がきて、背中をさすったりなんだりでとりあえず保健室に連れていかれた。

この1件から僕は重度の嘔吐恐怖症といわゆる不安障害、パニック症をよく引き起こすようになってしまった。嘔吐恐怖症に関してはそこから1年くらいは外でほとんど全くご飯が食べられなくなるくらいで、給食も食べれなかったし外食もできなかった。その後も大学生になるくらいまではドラマや映画でのそういう描写や話題、「嘔吐」という文字や言葉でさえ半パニックになるから避けて通るほどだった。

トラウマとか〇〇恐怖症の類って経験数×インパクトの法則が基本で、いわゆる少ない経験回数に大きなインパクトが重なることで起こることが多い。犬恐怖症の人は大抵何回も噛まれた訳じゃなくて、噛まれたのは子供の頃近所の犬に1回とかだし、閉所や暗所恐怖症は過去に1度どこかに閉じ込められたことがあるとかって感じ。
子供の頃から身体が強かった僕は記憶してる限りそれまで吐いたことなんて1度もなかった。それもあって、嘔吐したこと、それもみんなの前で吐いたことが相当のインパクトになったんだと思う。
それを踏まえて今思うとそれ以降またお酒飲むようになるまで吐かなかったから大人になるまでずっと治らなかったんだなって思う。
逆に克服の方法もこの逆で、結果論だけどひさとのおかげ(?)で嘔吐恐怖症をほぼ克服したんだけどそれはまた別のお話。いやまじでありがとうやわ笑 あんなにあっさり治るとは。友達ってすごい。

話は戻ってそれからしばらく学校を休んでたんだけど、治ったと思って学校に行くと気持ち悪くなって帰ってくるみたいな日々が続いてた。そのころは僕が環軸椎亜脱臼になってるってのはまだ分かってなかったから保健室の先生も親もお手上げで、その後症状が良くならないことで病院に通ってMRIやらCTやらの検査をいっぱい重ねてやっと環軸椎亜脱臼が発見されてそれが原因だったってことになるんだけど本当はそれだけじゃないことを僕は知ってた。というよりは首による吐き気は割とすぐ治まってそれ以降はメンタル的な要因だったことを僕はいえなかった。
医者が言うにはその首の影響で頭痛やら吐き気がすることがあるし気圧の変化で激しくなるから雨の日とかは余計しんどいんだそう。
確かに雨の日に体調が悪くなったりするからやっぱりそのせいもあるんだろうと思う。最初とか特に。けどよくなってからも僕は親や先生にはその怪我の後遺症ということにして根源を言えないままおとなになってしまった。というか気づいたらそういうことになってたし最初は僕もそう思ってたから引き返せなくなってた感じもあった。

というのもその頃の僕は、いわゆる元気で活発、悩みなんてまーーったくありません!!みたいな感じの明るい子供だった。正確にはそう認識をされてた。
そういうキャラってやつだね。
そのせいもあって僕は 嘔吐が怖くてトラウマでパニックになるってことを結果的に最後まで誰にも言えなかった。

僕はその嘔吐事件の後、外に出ようとすると吐き気がくるみたいな状況がずっとつづいていた。
父親が厳しかったからずっと休んでいるとおこられるから2週間目くらいからは無理して学校に行った。それでも教室に入ったら吐き気が来るのですぐ気分が悪いからといって外に出てほとんど授業には出れなかった。
幸いなのかそのころの僕は元気で活発だけど真面目ではない、というか世にも珍しい小学校で荒れて中学からはガリ勉という意味のわからない経路をたどったため、絶賛不良中(?)で、最初は心配して探しに来たり僕の体調を気にしていたみんなも、「授業がだるいんだ」「またさぼってるよ」という扱いになっていた。でも僕としては気兼ねなく授業をぬけれるからむしろそれが楽だった。その頃の担任が放任で授業に連れ戻しに来なかったのもよかったのかもしれない。

そんな生活がかなり続いて、吐き気は教室や人混みなどの人がいる場所で、なおかつ授業中や乗り物の中などの閉鎖空間や自分のタイミングで抜けられない状況で強く起こることに気がついた。
というか、逆に言えばどれだけ強い吐き気が来てても、授業中の裏庭など、誰もいない開けた空間に出ると嘘みたいに吐き気が引いた。
それに気づいたとき、これはもう首のせいじゃないなって完全に気づいた。
そもそも嘔吐に対する恐怖心にはずっと気づいていたし、それによってパニックになってることも知ってた。だけどそれはそれとして、吐き気は首のせいなんだと思ってたから正直びっくりはした。
それがわかってからこの「虚の吐き気」とどう付き合っていくかを考えるようになった。
てかキョノハキケってかっこよくない?技みたい。

そのころ僕は不良仲間(実際には僕は不良じゃなかったんだけど、みんなの認識と行動パターンが一緒だからそいつと過ごしてた)と授業中外で過ごすことが多くなっていた。
結果的にそいつとはめちゃくちゃ仲良くなって、高校が離れても遊ぶしいまだに数年に1回くらいはあってるくらいの仲良しになったから結果良かったかも。ちなみに数年に1回?とおもうかもだけど小学校のときの友達でいまだに会うって僕の中ではかなり凄いこと笑
めちゃ仲良し。
ちなみにこいつがあのクラスメートのほとんどの名前おぼえてなかったやつなんだけどそれもまた別のお話だね。気になったら追いツイしてクレメンス。

んでその不良仲間(以下かんじ)とよく用務員室に行くようになった。
僕が外で何もせずただ動物園のトラみたいに同じところをぐるぐるぐるぐる歩き回ったり行ったり来たりしてるのを見て「寒いから中おいでや」と言ってくれたのがきっかけだった。
めちゃくちゃうれしかったんだけど、前述した通り閉鎖空間にいくと吐き気が来るので断ってたんだけど、あんまり言ってくれるもんだから断れなくて着いて行った。

最初はやっぱりすぐ吐き気が来て、適当な理由つけて外に出てまた戻ってを繰り返してたんだけど、びっくりすることにそれをしてるうちにいつしか用務員室だけは密室でも吐き気がしなくなってた。
これは今思うと最初に書いたインパクト×経験回数の話に帰着するんだと思うけど当時めちゃびっくりしたし、家以外で吐き気がしない初めての場所だったそこは僕にとって文字にできないほどの居心地の良さだった。
まあその後卒業までそこに入り浸って終業式とか含めほとんどの時間をそこですごしたことは言うまでもないと思う。
ほんといまだにあの用務員さんには感謝してもしきれないし卒業してもかんじとよく会いにいってた。もう亡くなっちゃったんだけどかんじとたまにお墓参りに行ってるしその墓参りがあるからまだかんじに会えてるところあるね。

話がそれたから戻すと、その後6年生にあがり、用務員室では完全に吐き気は来なくなってた。
でもまだ教室とかには到底行ける感じじゃなくて、吐いてしまったトラウマとかもまだまだ強く残ってた。
音楽室に向かう最短ルートは吐いてしまった廊下を通らないといけないんだけど、わざわざかなり遠回りをしてそこを通らないようにしてたくらい。
その廊下は結果的に卒業まで通れないままだったな。(1回だけ頑張って走り抜けてみたことはある笑)

その時の担任がかなり僕のことを気にかけてよくしてくれてて僕のことをとても心配してくれた。
でも用務員室には入れてることも相まってそのころの僕には以前にもまして「授業をサボっている問題児」というレッテルがベッタベッタと貼られていた。そしてなんということかその先生によって(グレてもいない)僕を構成させようとする(謎)プロジェクトが始まってしまったのだ(いやごめんねありがとうだけどつらかった笑 嬉しくはあった)。

まず僕が授業を抜け出すとクラス総出で僕を探しどこにいても見つけだし連れ戻す。
やめてくれ。
教室に入ると本当に自分でもびっくりするくらい吐きそうになるので押さえつける先生を振り払って逃げるように外に出たりした。
こりゃ手に負えないわ と思わせないといけないと思い、暴言を混じえたりして「不良感」をマシマシにしてみたりもした。
24歳の若い女の先生だったのもあって泣かせてしまったりもした。
まじごめん笑
ほんとはめちゃくちゃ好きだったけどその時の僕には何とかして自由に教室から出られるようにすることで精一杯だった。

でもその先生は諦めなかった。どんだけ拒絶されても僕を更生させようとしてくれた。
いやぁ〜いい先生すぎるだろ。
でもそもそもが別にグレてないのよ。
めちゃくちゃ困った。
僕はそういえばお母さんが最初まだ首の後遺症が見つかる前、ほんとにしんどいと伝えるとお父さんに内緒で学校を休ませてくれたことを思い出した。
そう。いってなかったけど母親も神なのよ。
でもお母さんにも結局言えなかったんだけど。だから多分これ読んだらガチでびっくりすると思う笑

まあそれはいいとして、母親に首の後遺症で
吐き気があるから教室を出れるように先生に頼んで見てほしいと話した。
そしたらまあ割とあっさりことは進んだんだけどその代わり用務員室ではなく保健室に行くようにということになった。藤原史にのこる一大事、用務員室禁止令である。
そういう事じゃないんだよなぁと思ったけど首の後遺症と言っている手前そこが誰もが認めざるを得ない最適な妥協点だった。
せっかく出来た家以外の唯一心が休まる場所を封じられた僕はかなり絶望したんだけど、その先生と保健の先生がどっちもすごくいい先生だったこともあり、用務員室をゼルダの伝説夢幻の砂時計 バトルモードの「聖域」にした要領で
これも誰がわかるんだ。
つまり安地。安全地帯。
安地にした要領で保健室でも吐き気が無くなるように独自のアルゴリズムで適応プログラムを組んでだんだん保健室にも長い時間入れるようにした。
簡単にして書いてるけどかなりしんどかった。
となると当然先生は教室にも。。となる。
しかし教室は用務員室や保健室などの理解のある少人数だけがいる場所とは違ってかなり時間がかかった。
先生のおせっかいが行き過ぎてテストを別室で受けさせて貰えず、テストくらいはと教室でテストを受けさせられていた。途中退室できない、密室、静か、大人数がいる などなど吐き気が来る要素が満載でテストとかが1番しんどいんだよ。。。とはまあいえなかった。
点数が悪いと父親に殴られるのでこれは虚の吐き気なんだと自分に言い聞かせて嗚咽を抑えながら筆算を解いた。

そういう荒療治もあってか、卒業までには授業にもかなり出れるようになっていた。

それから中学校に上がって、環境も変わりその症状もどんどんほとんど無くなって、2年に上がる頃にはその症状も全くなくなっていた。
その後隣のクラスで〇〇が吐いたらしいという噂が耳に入ってきて再発したんだけどそれも手馴れたもんでその頃には独自の方法でパニックを治したりそれを引きずらないようにするすべを身につけてて大事にはいたらなかったから割愛する。
もうここまできたらお得意の根性でどうとでもなった笑

ちなみに中学時代の3年間は成績が悪いとかで中二の夏休み以外は外出禁止で誰とも遊べなかったことがその後の爆絶コミュ障に繋がってくんだけど、それもまあゆうやと海外住みのお陰で支障ない程度には治ったから割愛して幼少期編終幕といたす。
いやまでやっぱこれだけ言わせてくれなんかどうしても何故か提出物がだせなかったのよ。あれ多分病気だろ笑
提出物自体はやってるのに持ってくるの忘れたり、次の日出せばいいのにすこしでも遅れてしまったらどうしていいのかわからなかったりなんか許されないような気がしたりで終わってるのに先生に出しに行けなかったりした。これも誰にもいえなかった。
まあそんな感じ、書くの飽きてきたから幼少期編はおわりです。打ち切り。作者の飽きにより打ち切り。
ここまでながながとあざす。

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