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B-2 UNITへの思い出と高尚なものになりつつある黒いTシャツについて思うこと

まずはじめに断言しておきます。
僕はYMOとYMOのメンバーから多大なる影響を受けていますが、カルトキングの前では足元にも及ばない知識量しかありません。
ですのでここからは僕の実体験、僕の視点、感じたことをもとに書いていきます。

「B-2 UNITへの思い出。」
最初は「Riot in Lagos」から知ったこのアルバム。ジャケットデザインはCdG経由で存在を知ったデザイナーの井上嗣也さん。

ゲーム音楽とボーカロイドが聴き馴染みのある音楽だった僕にとって、(さらに遡るとDaft Punkですがここで書くと話が逸れちゃうのでそのことは気が向いたら書きます。)強い衝撃を受けたわけです。

僕が電子音楽のグルーヴを深く感じて、理解したのが「Riot in Lagos」でした。
そしてジャケットデザインにも魅了され、僕のいつもの癖で元ネタ、影響元についても調べ、その元の芸術運動の時に活動していた人物の作品等を知るわけです。

僕がこの芸術運動に関連するアーティストの作品を実際の目で観たのが、記憶が正しければ2017年にパリに行った時にFLVでやっていたMoMA展で観たKazimir Malevichの作品です。

その作品は白いキャンバスに白い正方形が描かれた作品でした。
この芸術運動に関連するアーティストの作品は皆赤や黒などの強い色彩を使いコントラスト差のある作品を作るものだと勘違いしていたので、白の濃淡だけで描かれたこの作品にハッとさせられたわけです。
繊細な色の濃淡と僅かに傾いた正方形がうつしだす精神と問い。
この作品から強いエネルギーを感じたのです。

「高尚なものになりつつある黒いTシャツについて思うこと。」

いつからTシャツは肌着からスタイルを主張するものになったのだろうか。
Tシャツに関する詳しい歴史をまとめた記事はインターネットで簡単に調べて知ることができるのでここでは書きませんが、僕がシンプルなTシャツを初めて着たいと思ったのはSteve Jobsがメインのロールモデルとなったノームコアブームからの影響です。
当時の彼ら、彼女ら、のアンチファッション的スタイルに強く惹かれました。(まぁ結局はただのブームになってしまい、消費され、挙げ句の果てには時代遅れだの、ダサいだの言われているわけですが)
あの時はSteve JobsがISSEY MIYAKEのタートネックを着ていたので、僕もいつかはこだわりの黒いカットソーを着たいなと思い、数年後に別のブランドが出している高級パックTを買ったりしていた時期もありました。

そして時代は巡り言葉や意味を変えてまたあの時のスタイルが帰ってきたのです。
(個人的にはMartinがHermèsで提案して当時は批判されたらしいあのスタイルこそがこのスタイルの完成形であるとおもっていますが)
そんななか僕は疑問に感じるわけです。
シンプルなものはあらゆる人間の思いや感情を受け入れるうつわにはなり得るが、消費を促すものではないと。
3年後には用済みになってしまうファッションという娯楽のためにあるおもちゃではないと思うわけです。

あたかも数年前に流行っていた服を低俗で粗悪なものとして扱い、シンプルな服を高尚なものとして時としてアートの文脈を織り交ぜ人々に物を買わせようとする現状に作り手として疑問や違和感を感じるのです。

人々の根底にある生きづらさ、悩み、不安、適切なことばがなく自己主張のできないことなどを解消、解決するためにあたらしい概念やことばが生まれることはいいですが、ただただお金を稼ぐことや我々を翻弄するためにあたらしい概念、ことばが生まれることはもういいのではないでしょうか?

上に書き殴った文は服を愛し、愛しすぎてしまったが故に最近の流れにはどこか疑問や違和感を感じている僕のただのぼやきですが、書きまとめさせていただきました。

まぁ僕はTシャツぐらい直感で衝動的に買って雑に着たいのです。

最後にB-2 UNITから僕が好きな曲を紹介させてください。
「Thatness and Thereness」
和訳するなら
「そこにあるもの、あるべきもの 」

服の詳細。
ブランクボディの黒のTシャツ。

CDの詳細。
坂本龍一/B-2 UNIT

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