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私にふさわしいもの

なんで彼が私と付き合ってくれてるかわからないんですよね。

というご相談を最近よく受ける。

彼は人間的にとても魅力的で自分にないものをたくさん持っていて、自分も彼のようになれたらなと思う。

なんかどっかで聞いたことある。。

特に去年くらいから男女問わずそんな方達との出会いに恵まれていてこの2点を実は自分もよく感じていた。

どこかで私はこんな素晴らしい人に相応しくないと思っている自分→自信がない→自分が出せない→自分でいられない(時がある)感覚を感じている。

そんなふうに見える。感じる。

今思うとこの頑なさはなんだろうと思うほど、
今自分が享受しているものは自分に値するもの、
相応しいもの、
と思わないことで得ているものは何なんだろう。

私という存在に呼応するものが目の前に存在や現象として現れている。

それを歪んだ鏡や眼鏡で見る必要もないのだけれど、
かつて観えるがまま感じるがままの私でいることで
人を傷つけた、自分が傷ついた、
と潜在的な記憶、刷り込みがある人は
その防衛反応からそれを受け入れることを拒んでしまいやすい。

“こんな私” でいた方が、安全で愛されると神経回路ができている。

それが何十年前のことであっても、
頭では今は違う、この人は違うとわかっていても、
身体は覚えているから。

本当は、自分の身体が
この人は私にふさわしい、
と思いたい私がいるのも知っている。

人が人に惹かれるのはそこに共振するものを感じている、共鳴するものがあるからで、
相互的に最善のタイミングで呼び合って出合って今共にある。

つまり部分的にあの人と私は同じ、
あの人は私の一部(の鏡)であり、
私もあの人の一部(の鏡)でもある。

ふさわしいも何も、同じものを持っている。
それが種の状態と、花を咲かせている状態との違いは、
にんじんと大根の違いとはちょっと違う
くらい同じものである。

と思うと、
この世界も自分もなんて素晴らしいのだろう、
ありがとう、と思える。

そして、聞き進めていくと
冒頭の言葉には同時に
相応しくない、
ことの確信も含まれていることがよくある。

同じ、相応しい一部、
以外の他の部分に
自分の価値観とは異なる質を感じる時、
先ほどとは逆に、
“あの人”(の一部)は私には相応しくない
と実は気づいていることになる。

それは相手の存在を否定することではなく、
相手を受け入れられないのでもなく、
ただ質感が違う部分があるということ。

自分の美意識や哲学に沿わないものの心地悪さは一度気づいてしまうとこれが扱われるまで何度も叫び続ける。
仏教ではこういうのを罣礙というらしく、心に蓋を覆うものという意もあると聞いて、ようやく私は自分をこれ以上ごまかせないことを認められたことがある。

ただ惹かれているのも事実、
自分には他にも大事なモノがあるのも事実。

その両方がいつもある。
時には片方でもう片方が見えなくなっていたりしながら。
しかも刻々とうつろいながら。

そのそれぞれが不完全で完全な美として
好きな角度とバランスで好きな関係性で鑑賞、享受することを
私たちは自分で選ぶことができる。

その相応しさ、しっくりくる肌感質感を、
その相応しくない、違和感心地悪さを、
私たちは好きなだけ好きなように今生で集めることが許されている。

#しっくりする #肌感質感 #ふさわしい存在 #ふさわしい関係性 #享受する歓び  




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