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2023/09/22(金)

永井均が桑原武夫の「第二芸術論」に言及した日記(『哲学の賑やかな呟き』におさめられている)と、『子どものための哲学対話』のそれに関連するあたりを読もうとしたのに、前者はその本をパラパラをめくってもどこに書いてるか見当たらず、後者は会社に持ってくるのを忘れてしまった。(読書は通勤時と昼休みにしている)

桑原武夫の第二芸術論がなんだったか忘れてしまった。俳句か短歌の流派の話で、一方が他方を批判する根拠を持つかどうかという話だっただろうか......いまは調べないが(この日記は、できるだけ思い出せる範囲のことを思い出せるままに書くことにした)、桑原武夫の第二芸術論の話は永井均の哲学への態度そのものを語っていたのではないか、ということをふと思った。

この「調べない」で思い出せる範囲で書いていくというのはなかなか面白く、何度か読んだ本の一部でさえぼんやりしている。固有名詞などは思い出せるのだが、肝心な議論の中身を思い出せない。世の中の多くのものが、はっきりと、明瞭に、若い人ですら他人に向けて慎重に書く(他人に不用意に突っ込まれないように、という意図があるように思われる)のだけど、この日記はしばらくそれの正反対をやっていくことにした。

調べないで書く、を思いついたのは昨晩寝る前、日記をアップするときだ。日記をアップするため、最後のほうの文章をまとめようとしていたのだが、その「まとめる」という考え方に急に抵抗したくなった。早く寝たかったから。だから、言及しようと思ったことが思い出せないけど、もうこれでいいや、という感じで文章が終わっている。

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桑原武夫の第二芸術論がなんだったか忘れた、と書いたが、そもそも何だったかよく知らなかったようだ。桑原武夫がいわゆる「目隠し俳句」(作者を伏せて、俳句を並べて、その良し悪しを問う、という感じ)をした結果、良し悪しの見解が一致しないから、俳句なんてジャンルは成立していないんじゃないか、という批判。

ちなみに、永井均は日記のなかで桑原武夫の第二芸術論とソーカル事件が提起した問題は本質的な類似性があるのではないか、と言っている。永井均がそう書いたことはまったく覚えていなかったが、最近読んでいるイアン・ハッキングの『何が社会的に構成されるのか』には、ソーカルの話が出てくる。このあたり、どういう類似があるのかをちょっと考えてみたくなった。

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