吹奏楽経歴

こんばんは。
今日は私の吹奏楽(部)経歴について話します。果たして誰が興味があるのか。


中学時代

中学入学までは全く音楽に触れてこない生活をしていました。というのも、本当に接点がなかったんです。
家族も音楽に疎い(強いていえば父は高校時代軽音楽部でギターをしていたそう)し、小学校にも音楽系のクラブはありませんでした。なので入っていたのはイラスト部だとかバドミントン部だとか家庭科部だとかそんな感じ。

そんな私は、中学入学時に部活を選ぶとき「やったことがないことをしたい」という思いがありました。だからたくさんの部活に見学に行きました。運動部は卓球部、ソフトテニス部、文化部は弦楽部、ギターマンドリン部、数学研究部、茶道部、日本舞踊部まで。その中に吹奏楽部もありました。

あまりよく覚えてるわけではないですが、前の席だった子と楽器体験を一緒にしに行ったのがきっかけだったと思います。体験をしていて、吹奏楽部ってなんか良いなあ、青春っぽいなあ、そんな風に思った私は、その友達と入部を決めました。


担当楽器

入部してから楽器希望調査があり、全員一度はすべての楽器を吹く、弾く、叩く等してから希望を出します。元々書いていた希望は「1.トランペット 2.フルート 3.サックス(どのサックスは書いてなかったと思う)」でした。見事に全部花形楽器。笑
ただ、楽器を吹いてみて、あまりにもフルートの音が鳴らなかったので希望を違う楽器に変えようと思いました。何を書こうかな…と考え、「そういえばさっき吹いたホルン、音鳴ったし褒められたなあ」そんな理由で、第二希望の欄をホルンに書き換えました。

そんなこんなでホルン担当が決まります。ちなみにホルンの同期はおらず、高校3年の引退までずっとひとりでした。


オーディション

ある意味転機とも呼べるのは中学2年の春頃、コンクールのオーディションでした。
私の学校は中高一貫校なので、コンクールは高校の部の大編成のみ出場していました。コンクールに出られるのは一応中学2年生以上からとなっていましたが、多くのパートは中3、もしくは高校生以上がコンクールメンバーでした。

当時のホルンパートは中2~高2まで6名。コンクールメンバーは恐らく4名。順当にいけば私が落ちるはずでした。

だけれど、どうしてか私は合格してしまいます。そして不合格になったのは高校2年生、つまりコンクール出場が最後の年の先輩でした。(余談ですがそのあと先輩は部活に来なくなり、そのまま部活をやめてしまいました)

そして任された楽譜は課題曲1st、トップでした。最年少の自分がこんなパートを担当していいのかという思いと、絶対にやり抜いてみせるという気持ちが交錯していました。私自身の今の楽器に対するプライドみたいなものは、この経験から来ているのかもしれません。


役職持ち

中高一緒に活動はしていましたが、中学部長・副部長なるものが存在しました。中学生以下での演奏機会をまとめ、ゆくゆくは全体の部長・副部長になるポジションです。

私が入部した時のホルンの先輩が部長をしていたということもあってか、部長には憧れ、崇拝のような感情がありました。そして中学部長・副部長を決める機会に、私は希望欄に「部長」と書きました。
結果的に、私が就いたのは副部長です。別の子も部長を希望していたようで、先輩の決定により副部長になりました。
そのまま私は高校引退まで副部長を務めることになります。



高校時代

中高一貫校なので(n回目)、高校でも変わらず同じメンバー、同じ顧問、同じ練習場所という変わらない環境でした。

ちなみに今使っている楽器は、高校1年の5月頃に買ってもらったものです。値段がそこまで張る楽器というわけではないけれど、私にとっての宝物です。


またオーディション

高校1年の時、奈良県バンドフェスティバルなるものがありました。奈良県中の高校生が集まり、難しい曲を演奏する。合同バンド的な感じでしょうか。
それに出演するためにはオーディションに合格する必要があります。当時、ホルンは比較的倍率が高く、たしか22人の応募から6枠のみの募集でした。
そんなもの受かるわけない、でも、自分の全力を尽くしたい、そんな思いで、狂ったようにオーディション箇所を練習しました。ちなみにそのオーディションフレーズは今でも何も見ずに吹けるくらい、人生で一番練習したフレーズといっても過言ではないです。

そうして、なんの幸運か、合格することができ、晴れて舞台に乗ることができました。そこでの演奏はすごく刺激的でした。とにかく全員、めちゃくちゃ上手くて、自分の高校じゃ考えられないくらいのレベルの奏者がたくさんいました。刺激になったと同時に、上には上がいるんだとも感じさせられました。(ちなみにこの舞台、当吹部正指揮者のトランペット奏者も一緒に乗っていました。高1時点で出会ってしまっていましたね、なんの縁なんだか。)


衝撃の持ち替え

高校2年、幹部学年となり、コンクールに向けて動いている最中でした。
そのころには自由曲は決まっていました。喜歌劇「微笑みの国」セレクション。冒頭はホルンソロ。先述した通り、ホルンの同期がいなかったので、私が必然的に吹くことになっていました。

そんな中で浮かんできた問題、それは、「トランペットの人数が足りない」でした。このままいけばトランペットのコンクールメンバーは2人。課題曲すら全パートで吹けない。そんな状況でした。

そして、私が持ち替えをすることに。はじめてのトランペット、楽譜の音も読めない、右指でピストンを押すことに慣れない、等たくさんの苦労がありました。
だけど、入部当初に第一希望に書いたくらいには好きな楽器なので、たくさん練習しました。2019年度課題曲Ⅱ「マーチ・エイプリル・リーフ」の3rdを吹きました。4月~9月まで、5か月くらいトランペットを練習することになります。

自由曲冒頭、楽器を持ち替えて最初に出す音がソロという普通じゃあり得ない持ち替えを経験するコンクールでした。ちなみに結果は銀賞。というか銀賞以外取ったことがありません。笑


はじめてのアンコン

高2の秋頃から、アンサンブルコンテストに出たいという気持ちでメンバー集めや曲決めをしていました。曲はコッツウォルズの風景に決まり、練習に励んでいました。
これも校内予選オーディションがあり、なんだかんだで勝ち抜き、本番を迎えました。

ここでも、他校の上手さに圧倒されます。定かではありませんが、某高校のトロンボーンアンサンブルがまじで上手かったし怖かったです




私が経験していた高校の吹奏楽部は、ここまでです。というのも、高3の春の最後の定期演奏会は某ウイルスのせいで無くなってしまったから。
いろいろな経験をしたし、悔しい思いもたくさんした、そんなホルン奏者・副部長を過ごしていました。

余談ですが、大学入学以降の部活で、今年の6月くらいまで部長と呼ばれ慣れなかったのは、中高の副部長経験のせいだと思います。さすがに今は呼ばれ慣れちゃいましたけどね。


大学入学以降についても書くか考えましたが、また別のnoteにしてみようかなと思います。もしかしたら引退後とかになるかもですね。


という感じでおわりにします。おやすみなさい~。


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