卵が先か、鶏が先か
音楽、演劇、美術等、アートに属するものを生み出す人、いわゆるアーティストに対して、私はその人の人となり的な要素をあまり求めていない。どんなアーティストであれ、作品が秀逸であれば心打たれる。打たれた心には正直でありたいし、良くも悪くも感動することに作家の人間性は関係ない、着眼点はそこじゃない、と思っていた。
少し常軌を逸しているくらいが、より研ぎ澄まされた感性を持ち合わせていて、よりアーティステックな作品を創作しているような偏見すらあった。あくまでも、良い意味での偏見だ。
要するに、性格の良し悪し=作品の良し悪し、という定義がそもそもない。それとこれとは別。だった。だったんだ、今までずっと。そんなこと気にしたこともなかった。
これも昨今の世界的な不安定さも作用しているだろうか。目に見えないものに対する漠然とした不安。この私ですら、多かれ少なかれその影響は受けているのか。信仰心とまではいかずとも精神的に支えられる瞬間は、以前よりも確実に増えた。
それまでだって何度も何度も元気をもらってた。この状況になって初めての現場復帰。ヨコタさんが投げかけてくれた言葉は、その後の方向性を決めた。あれからずっと、適度に手を抜いて一緒に走っている、気でいる。この気持ちだけでも充分心強いから不思議だ。
音源ありき、それを直接感じ取れるライブありき。そのエネルギーを吸収したくて足を運ぶ。必ずしも「好きだから満たされる」とも限らない。確約がなくとも求めてやまないのは好きだから?それとも、満たされるから好きなのか?
通ってきて道の険しさ、乗り越えてきたことの重さが集約していた。それらを丸ごと含有し、最大級のやさしさに変換する。まともに食らって嗚咽した。このやさしさに包まれているから、私は強くいられる。心穏やかでいられる。
もう一人、この卵が先か、鶏が先か現象を巻き起こす人物がいる。
夢中になる。楽しむ。誰にでも分かる言葉がこうも端的で説得力を持つものなのか。クリエイターでも表現者でもない私ですら全肯定されたような気分になった。
「思いどおりにいかない」ことの「メリット」について。
思いどおりにいかない。一見、負の要素にも受け取れる言葉を、メリットという肯定で覆す。これも一種のフリとオチの概念に近いのか。こんなに短いのに、ぐいっと惹きつけられる、たまらなく魅力的な書き出し。
そして極めつけはこれだった。
私は精神的に安定している方がまっすぐに好きでいられる。成熟しているとは思っていない。気持ちに余裕がなかったり精神的に未熟であったりすると、どうにも偏りが生まれるから。好きであること以上に救いを求めるような風潮は、間違いだとは思わないが、自分とは少し感覚が違う。
私はひとりで立つことができる。それができなくなったら自発的に医者へ行くだろう。少しよろけそうになった時、そっと支えてくれたり。日常にたびたび発生する抑揚や潤いであったり、幸せだと思う瞬間が増えたり。
自分が生きるための最低限の土台は自分で作る。それをより一段と豊かに、色鮮やかにしてくれるのが、アートだと思っている。
尊敬する表現者にこう言われたときの衝撃。卵が先か、鶏が先か。そもそも作品が好きで好きになったのは間違いない。こういった感覚まで共感できることになる、ものだとは。
私の大好きな人は、揃いも揃ってまっすぐで、自分に正直で、感謝を忘れない人。好きになる時は理性より感性が働く。無意識であることが多いけれど、無意識だからこそ、自分に必要なものを供給しようするのは自然なことなのかもしれない。まんべんなく、いろいろな『好き』で自分を包囲することで、外敵から身を守ることもまた然り。
言ったそばから一番の精神安定剤が投下された。
またしばらく医者いらず。医療崩壊の懸念には相当貢献している気もする。根拠などないけれど。
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