真・女神転生Ⅲ考察「何故COMPが無かったのか」

・前置き

 先日、真・女神転生ⅢのHDリマスター版が発売された。私がその存在を知ったのはニンテンドーダイレクトでⅢのHDリマスター、そしてⅤが発表された時の事で、それまでメガテンシリーズは殆ど触れたことはなく、その上やけに仰々しい宣伝(当時見た時の感想)を行っていた為、これはメガテンに触れてみるいい機会だと思い、メガテン作品に触れてきた。

 なので、私が「ちゃんと」プレイした事のあるメガテンシリーズは真・女神転生Ⅰと真・女神転生Ⅲだけで、その上で考察している。そこの所をご了承いただきたい。

 そしてこの考察を書く上で真・女神転生Ⅰ(以降メガテンⅠ)、真・女神転生Ⅲ(以降メガテンⅢ)の深刻ではないにしろ一部ネタバレを含むので、その点も重ねてご了承をば。

・ポストアポカリプスと真・女神転生

 「ポストアポカリプスもの」や「終末もの」と言った、所謂文明、人類といったものが崩壊した後の世界を舞台として描く、一種のジャンルをご存じだろうか。もしポストアポカリプスというジャンルの名前を知らなくても、作品名を出せば恐らく知っている人も多いと思われる。最もわかりやすい例を挙げるならば「北斗の拳」だろう。

『199X年。世界は核の炎に包まれた。文明社会は消え去り、世界は暴力が支配する弱肉強食の時代へと突入した。』

 う~んわかりやすい。もう一度述べるが、要はこういった世界を舞台として描く一種のジャンルである。

 そして、メガテンⅠも、例に洩れずそのポストアポカリプスものである。落ちる核。崩壊する東京。悪魔と人間の乱痴気騒ぎ。これをポストアポカリプスものと言わずなんというのだろうか。

 だが、そうしたメガテンⅠにおけるポストアポカリプスものの感覚をメガテンシリーズを通して存在するという前提をもし置いてしまうと、とある問題が起きる。それは、メガテンⅢはポストアポカリプスものか否かという事だ。

 これは私見なのだが、初めてメガテンⅢをプレイしたときに感じたのは、メガテンⅠや他の見聞きしたメガテンシリーズと比べて醸し出される異質な空気感であり、期待していたポストアポカリプスのそれを感じはしなかった。

 だが、だからといってメガテンⅢはポストアポカリプスではない、とは断じることはできないだろう。メガテンⅢだってちゃんと世界が崩壊していて、見方によっては……なんて迂遠な言い方をしなくてもちゃんとポストアポカリプスものの一種と思われる。それでも、明らかにメガテンⅠと比べると異なっているのだ。例えるならば、『北斗の拳』を求めて作品を探しているのに、その場に『人類は衰退しました』とか『少女終末旅行』とかが並べられると、「確かにポストアポカリプスものだけど……」となってしまうようなものだ。メガテンⅠとメガテンⅢは、似ているが確かに異なったポストアポカリプスものなのだ。

 では何故そうまで異なった物になってしまったのか。それは恐らく主体となり文明を築き上げる霊長の存在、『人類』の有無であろう。

 メガテンⅢの世界では、人間はコトワリを紡ぐために生存が許された一部の例外を除いて全滅していて、主人公さえも完全な人間とは言い難い「人修羅」である。思念体やマネカタといった人間のようなモノは残っているが、思念体は人間の精神の一部が残った所謂「地縛霊」のようなもので、マネカタは人間のようには見えるがその実人間のやっていたことを真似ている存在にすぎない。彼らは人間足り得ないのだ

 そうしたポストアポカリプス、主体となる人類が存在しなくなった世界、文明が失われた世界では、人間社会すらも無くなる。すると、主人公そして主人公を通して見る我々の景色からは「共同体」という存在が無くなって、孤独になった世界が見えてこないだろうか。そしてそれがメガテンⅢを構成する一つの要素。寂しさ、静寂、虚無感というような感覚を生み出しているのだと考えられなくもない。

・COMPと真・女神転生

 少し話がそれたが、要はポストアポカリプスものとして見たメガテンⅢは異質な空気感を醸し出しているという事である。その異質さを象徴する一つとして、メガテンⅢにはメガテンⅠと比べた時にとある欠けているものがある。それは、COMPである。

 その話をする前に、前置きとしてメガテンとCOMPに関してある程度纏めた物が有るのでそちらを軽く目を通してもらいたい。

  これを踏まえた上で、何故メガテンⅢにはCOMPが無かったのだろうか?

 COMPは出すのが難しいものではない。別に以前からCOMP自体の詳しい説明をされたことも殆どなく、舞台装置として主人公に持たせる物として理由などいらない。COMPは無くてもいい物だが、裏を返せばCOMPは有ってもいいはずであり、どちらでもよかったのだ

 けれども、メガテンⅢには無かった。有ってもいいはずで、有るだけの理由をこじつけるのも簡単と思われたが、無かった。それはつまり、無い理由がそこに有ったのではないだろうか。

 ではそのCOMPの意味を考えてみる。COMPとは人類の最新の英知の結晶であって、その高度な電子計算器という舞台装置は、現代はたまた近未来といった世界観を彷彿とさせる。つまるところそれが意味するのは最新の人類の文明の象徴なのだ

 多くの人間の集合によって生まれる人間社会の消失が、共同体の消失を象徴しているように、文明の象徴であるCOMPの消失は、文明の消失を意味するのではないだろうか?

 メガテンⅢの世界でもはや人間の文明など意味を成していない。COMPは意味もなく無くなった訳ではなく、文明が無くなった事を表していたのではないだろうか。

・真・女神転生Ⅲの世界

 人間は殆どいなくなった。形成していた社会は消え、そこには静かな東京が、いやもはや東京ですら無くなった世界がそこに残った。人間が培った技術体系、それらが紡ぎあげた文明も悉く消え去り、後には悪魔が残る混沌のみだった。

 道理で「ポストアポカリプスもの」として違和感があった訳である。人間社会も、文明も。種としての人類も、知識としての霊長の主も、全て消え去ったのであれば、「ポストアポカリプスもの」で描かれるはずであった主体としての「人」はどこにも存在しない。これは最早「ポストアポカリプスもの」といったジャンルでは無い。本当に人類の全てが破滅した『ポストアポカリプス』そのものなのであり。

 その舞台となった東京は

 もう死んでいるのだ





・余談

 「ポストアポカリプス」という言葉は、その語源を新約聖書にて記された「ヨハネの黙示録」から来ている。黙示録=アポカリプスである。そしてそのヨハネの黙示録では終末論のような特性を持っていて、そこから転じて終末(アポカリプス)の後(ポスト)。ポストアポカリプスという事なのだ。

 そして、実際のポストアポカリプス、終末の後では、神による千年王国が敷かれるのだという。

 訪れる終末、その後の神の千年王国。どこかで聞いたことが……?


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