2024/07/01 雨の日の夜

あのときはまだ10代も半ば。私は実家のこたつでパソコンをしていた。
うん、あの頃もパソコンで誰かとチャットをしたり動画を見たりしていた。
場所は何度もかわったけど、やっていることはあまり変わらない。考えていることもあまり変わらないかもしれない。
そんな自分を楽しんだり、情けないと感じたり、反省したり、開き直ったりしているうちに
あの子は生を受けて死んだ。
あの子の兄弟は9くらいいたらしい。そのうちあの子を含めて4くらいは見た。
あの子は一番動き回って、我々人間の様子を見ようとした。
だから、私はあの子に決めた。
名前をつけたのも私だ。意味を込めたつもりはあまりなかったけど、フィーリングで
家族で車にいたときに話していた気がする。
家に来てみんなで迎えた。
父は夕方少し過ぎに帰って抱きかかえて「よろしくな!」って言ってた気がする。アレで、その家のボスを感じたのか、そのあとの生活で感じたのかはわからない。
私がまともに接したのは、数年たらずだった気がする。
厳しい部活に耐えたり、挫折して家出をしたり、寮に入ったり、実家をでて一人で生活をはじめたり、また挫折してもどってきたり
それでまた家を出て、たまに顔を出したり
私の器としてはいろいろあり、いろいろさせてもらっている半生の中、あの子はいつも家にいた。ここ10年ほどはほとんど顔をあわせていなかった。
忘れられていただろう。
久しぶりに顔を出すと、あの子は吠えた。何が気に入らないのか、手を伸ばしても吠える。父はどこかで得た知識で、こいつらは笑っているのと怒っているのとわからなくなるんだ と言っていた。それが本当なのかなんなのかはわからないままだ。人間とは意思疎通は難しい。

あの当時は、休みの日になると、夕方はひまで、よく散歩にいった。
友人と電話しながらとか、音楽をききながらとか、とは言いながらも顔をちゃんと見てやったりした。散歩中に急になでると、一瞬びっくりしてからこちらの顔を見てきた。「おまえ、いたのか?」と言ってひとりで歩いていたかのように。
あの子は内弁慶で、家の者にはそれなりに横柄な態度をとっていて、よそのおばさんには媚びを売るのが得意だった。
小柄な種としてはわりと大きめで、若いときに私が歩かせすぎたのが影響したのか、筋肉質だった。
歩かせると1時間でも30分でも歩く。
媚びた種にしては端整で凛々しい顔をしていた。
産まれたときは全身白い毛をしていて、地肌のピンク色が少し顔を出していた。急激に大きくなって、ところどころ茶色い毛があった。

私は家を出て、たまにしか顔を出さなくなった。
そしてまた家に戻り、1年ほどは世話をした。
自堕落な生活の中、世話だけは自分の仕事として確保していた。
また家を出て、そこから母がずっと世話をしていた。
母は定期的に近況をおしえてくれた。
専門の病院にも毎月かかさず行っていたらしい。

母はそういった習慣をかかさずやるのが得意だ。命を預かるということに真剣だ。
家のほかの人間は、同じようにやれただろうか・・・と思うと怖くなるほどに。私も含めて。
母は人間の食べ物を与えないことに気をくばっていた。
一度だけ、私が夕飯を食べなかったときに、私の分のハンバーグを食べたときがあった。ちょっとした隙に肉を食べるときは私が知る限りでも何度かあった。肉を食べると気性が荒くなっていた。時間が経つとまったく忘れて表情がもどる。
野性が舞い降りてくるのだろうか。

私がまた、家を出て、そこから10年ほどはほとんど帰ることもなくなった。
たまに顔を出しても、あの子は忘れたようなそぶりをしていた。
本当に忘れていたんだとおもう。私は覚えてるよ。お前の顔もよく写真で見てるよ。
私は近頃家には帰っていない。
近くまで行ったことはあっても、帰る理由が見つからないから帰らなかった。
あの子に会うためという理由を、無理やりふりしぼって帰るべきだったか。
とか思うが、もう遅い。
急に会ったところで、あの子は私を覚えていない。噛まれるだけだ。
私はあの子とあと何度会えるか。と思っているうちに
あの子はいってしまった。
親族との別れって、そんなものなのかなあ。
看取ったのも母だった。
私は何もしてやれなかった。ここ10年もの間、何もしなかった。悲しむ資格があるのか。
しかしそれでも、さみしいなあ。
あの子は人見知りで臆病で、愛想も悪いから、あの世でうまくやれるかなあ。
いや、外面は良いほうだから、大丈夫かなあ。

がんばったな、ありがとう。

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