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幕末諸々備忘録 その二 『上野戦争』


「幕末諸々備忘録」として、旧住所ブログからいくつかエントリをサルベージしておきたくなり、その二。

(2018/6/13)

幕末もののよさは、当事者の直話が残っている云々‥‥‥と何度もいってしまうが、上野戦争については、上野の西郷どんの銅像をこしらえた高村光雲の思い出話が面白い ↓

高村光雲 幕末維新懐古談 上野戦争当時のことなど(青空文庫)

「師匠、どうも、飛んでもない世の中になって来ましたぜ。明日上野に戦争があるそうですよ。いくさが始まるんだそうで」

「何んだって、いくさが始まる。何処でね」

「上野ですよ。上野へ彰義隊が立て籠っていましょう。それが官軍と手合わせを始めるんだそうで。どうも、そうと聞いては安閑とはしていられないんで、夜夜中だが、こちらへも知らせて上げようと思って、やって来たんです」


↑ 落語っぽい。

上野戦争というと、なんといっても佐賀藩のアームストロング後装式施条鋼砲!ということになり、このアームストロング砲伝説は、虚実入り交じりすぎの司馬遼作品によって人口に膾炙したわけだが、史実であるとの誤解を生むという意味で、司馬遼先生の功罪?のかなり上位にくるものではないか。
(「小説家」としては、はた迷惑な話であろうが)

『花神』などで描かれる上野戦争でのアームストロング砲はまるでドイツの88ミリ高射砲の水平射撃のような決定的兵器として登場し、電光一閃!
ヤマトの波動砲のように強い!のである。

が、史実において、上野戦争でのアームストロング砲が大活躍したというのは、「鍋島直正公伝 第6編」(国立国会図書館デジタルコレクションコマ番号145あたり)や、江藤新平(使用を促した張本人)が「アームストロングの功すくなからず」と中野数馬に書き送ったくらい?(「近世日本国民史 第70冊」国立国会図書館デジタルコレクションコマ番号203あたり)で、客観的な記録に乏しく、命中率がひどかった、大半は不忍池に落ちたとかいう話もあるようである。

そもそも、佐賀藩が使用したアームストロング砲(×2門)は6ポンド砲で、口径は2.5インチ(64ミリ)にすぎないから、炸裂弾(榴弾)にしてもその威力はたかがしれている。
他藩は四斤山砲も使用したが、こちらも口径は86.5ミリで、6ポンド砲よりは多少炸薬は多め、くらいにすぎない。

砲撃によって上野寛永寺の山門や中堂が炎上したかどうかは微妙なのでなかろうか。

最終的に、戦争の趨勢を決したのは上野広小路からの薩軍の総寄せによるところが大きかったのであろう。

搦手の長州軍など何をやっていたのか‥‥‥といいつつ、新式の後込め銃(スナイドル銃)の操法がわからず、前線から指揮所に習いに戻ったというエピソードは、大好きなのだった(微笑)。

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