勉強するのは何のため?

テレビを観ていたらACジャパンのあしなが育英会のCMが流れてきて見入ってしまった。

いつから放送してるのか調べたら7月1日から放送しているんだね。

私自身も死別母子家庭の遺児です。
令和3年の厚生労働省の調べでは母子家庭のうち父親との死別は5%ほど。
あとは離婚家庭か、独身で出産した女性の家庭。
5%の内のひとりである私が母子家庭や、それを取り巻く環境でどのような事を学んだか今日はちょっと書こうと思う。

私の母は助け合いやボランティアに熱心な人。
それは裕福な家の専業主婦のお母さんたちがノブレス・オブリージュの精神で慈善事業としてやるようなものではなく、貧しい者同士が手と手を取り合い助け合っていた種類のものだった。

私の幼稚園から高校までの制服やジャージ、着ていた服、絵本や小説、実家に置いてきたもののほとんどは知らない誰かの所有物になって2回目の役割を果たした。
母は私が知らない間に譲る事も多くて、当時は「人にあげていいか私の物だから私に聞いてよ」と意見を言った事もあったけど「世の中にはうちより大変な人がいるから、税金も物もそういう人に使われるべきなんだよ」と言われて確かにその通りだしなあなんて思って何も言わなくなった。
実際、母が言ってる事は正しかったから。
教会が運営している困っている母子が住める母子生活支援施設で様々な母子と出会うと、世の中の残酷さの結果が集まったような現実があった。
だから母の言っている言葉の意味を幼かった私も理解していたし、誰か困ってる人が居たら手を差し伸べるのが自然な事だった。
そして私自身も差し伸べてもらって大人になった自覚がある。

だから人間関係ってそういうもの、相互扶助だと小さな頃から思っていたのね。
だけど周りを見ているとそう考えない人も、もちろん沢山居る。
「私と同じ考えの人も居るけど所属する集団によっては私の考え方はマイノリティになる」と成長するにつれて知って、そういう集団の中で場合によっては過ごしていかなきゃいけないのも知った。
ただ、それを子供のうちに知る事が出来てよかったと思ってる。
早い段階で学べるっていう事は早く知恵がつくって事だから。
だから現実で起きている事は良くも悪くも知っていた方が良いと思いながら成長した。
そしてその考えは大人になった今も変わってはいない。

人間はみんなひとりで生きていない。
今の当たり前も誰かのおかげ。
それを忘れると、気付かないと、傲慢になる。
優劣をつける、自分より上か下かで判断して人をジャッジする。
偏見の目で見る、差別する、頭の中で誰かを「こうなんでしょ」と想像でしかないのに決めつける。
そうすると偏見と差別が生まれる。
そして怒りや憎しみが広がり、分断や断絶が起きる。

繋がっていないように思える事でも地続きなんだという事はこれを読んでくれている皆さんも日々、実感としてあると思います。
今より悪い世の中にしたくないから私も今より人間性を悪くしたくない。
素晴らしい精神や魂を持った人間になれなかったとしても、そういう人が困っている時は条件付きの気持ちではなく無条件の気持ちで、すぐに協力できるくらいにはマシな人間でいたい。

この雑記の締めくくりに反ナチス・グループの一員で、拷問され処刑されたライヒヴァインという勇敢な男性が死を悟った上で幼い娘さんに宛てた手紙を引用します。

「機会があればいつでも人には親切にしなさい。
助けたり与えたりする必要のある人たちにそうすることが、人生でいちばん大事なことです。
だんだん自分が強くなり、楽しいこともどんどん増えてきて、いっぱい勉強するようになると、それだけ人びとを助けることができるようになるのです。
これから頑張ってね、さようなら。
お父さんより」

物事を知っていく過程や、その結果で身につけた知識や優しさを皆さんはどのように使っていますか?