お晩です

ということで今日も武術のことを書いていきたいと思います。しばらくは言いますが、必要とされる人に必要とされればそれでいい、という感じでやっております。更に言えば、気になる方は同好会に来ていただけたらと思います。しかしながら、来るも来ないも自分次第です。全ての判断や行動は紛れもなく自分の選択であります。ですのでこのように必要とされる方に必要とされれば良いということであります。

武術はコミュニケーションとは申しましたが、間合いを詰めるのにどうするでしょうか。いきなりいつでも殴り合えるような距離になるでしょうか。はっきり言って、お互いがまさに殴りあうような距離などは通常はあり得ません。どうやって近づくのでしょうか。

まず最初は見るわけです。認識してその人物がどんな感じの人かを見るわけです。認識もせずにいきなり「おいコラ」となるのは非常にワイルドかつ未来ではなく今その時のみを生きる人でない限り、ないと思います。その前に必要なのは、舞台を張るというか、周りの環境も非常に大事です。そこがどういう場所なのか、飲食店なのか、商店なのか、はたまた人気の多い道路なのか。

ちょっと話はそれましたが、近づくにしてもプロセスがあります。一つ言いますと武術は臆病かつ慎重でもあると言えます。俺は強い。なにかあればぶん殴ればいい、というのは強者の考えですが武術とは「弱者が強者をなんとかできるようにする術」と言えます。決して、相手をぶちのめして、めちゃくちゃにして、讃えられるようなものではなく地味なものであります。

地味なのかとなりますが、地味だからこそ技術として生き遺り、浸透できるわけです。強そうなのは結構なのですが、弱いのも非常に重要です。なぜなら、強いと見えず、弱いからこそよく見えるからであります。弱そうに見せるというのも非常に重要ですが、弱いのは悪いような見方がありますが、強いのと弱いのは同じことと言えます。理解すること大事なのであって、どちらか一方ということではないわけです。強く出るのもあるし、弱くなって引いてみるなどもあります。いい悪いはあまり関係ないところであります。ちなみに言うと、良いも悪いも同じと言えます。この二つで一つな訳です。

要するに、ネガティブなのがだめというのは全く合理的ではないということです。とともに話がだいぶそれてしまいました。

話をもどしますと、まずは身振り手振りや次に言語でやりとりするわけです。次第に距離は近づいていくと思いますが、これは武術的なものでもあります。いきなり交戦することにはならないのは、戦争も同じです。何かあって何かがあるわけです。ゆっくりと話したりしながら距離を詰めるわけです。話して、どうにもダメなら、非言語でのコミュニケーションに移行するわけです。物理的な手段に移るわけです。言語でダメなら、非言語でどうにかする必要があるわけです。やらずにすいません、許してください、では武術は必要ないわけであります。

ということでプロセスがあるというわけです。単なる殺すための技術ではないわけです。無理にそんなことはしたくないわけです。普段やっていることと同じようなものですが、知る知らないでは全然違います。

武術といえど、普段の生活や日常の中でも武術となります。特定の場所でのことではありません。未然に防ぐということでもあります。

ということで、話が行ったり来たりではありますが、この辺で。誰かの何かになんかしら感じることがあれば、と思います。

それではまた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?