ピュータン論争を読み解く。

どうもどうも。暑い中今日も1日がんばりましょう。

はい。タイトルにある「ピュータン論争」とはなんでしょう?
これは、グリーズマンとデンベレ(サッカー選手)による日本人差別発言問題に対して、「そこまで差別じゃないじゃないか?」派と「いやいや差別でしょ」派で起きている論争である。
いや、論争というほどでもないだろう。
たびたび、論破王ひろゆき氏を貶める意味でネット界隈では、この論争が用いられることが多い気がする。
今回、私はひろゆき氏の立場になってこの問題を読み解きたいと思う。(論破されたのかされてないのかはもはやどうでも良い、なぜこんな状況になったのかだけを考察するためにひろゆき氏の立場を取ってみようという試みである)

○ひろゆきサイド
私の思うひろゆき氏の意見は結局
「putainはみんなが思うほど強烈な差別用語じゃなくね?デンベレが極悪な差別主義者ってわけじゃなくね?やんちゃな若者ならそら使う時もあるでしょ」っていうことだと思う。
ひろゆき氏はこの立場とってるから、若者言葉やスラング的な意味合いを込めてピュータンが映画に出てきた数などをその根拠として言ってるのではないでしょうか。

しかし、私はピュータンを知らないし、フランス人でもないし
はて、本当にそうか?という点はわからないが、日本語に置き換えてみるとひろゆき氏の立場が通じる話はあるかなぁと思い探してみました。

もしこの日本語と同じことなのであれば、ピュータンが差別発言と直ちに言い切って良いのか?という結論になる気がする。

例え話ではあるが、日本には「キチガイ」という言葉がある。
この言葉は非常に醜いし汚いし人に対してそうそう言うような言葉ではない。おそらく、日本の上流階級の人や優しく温かい家庭環境で育ってきた人たちにとっては、恐ろしく愚かな言葉に見えるだろう。
しかし、金髪の兄ちゃんやヤンチャ坊主、ネット界隈に範囲を限定すれば、それは一体どんなニュアンスを持って使われるのだろう。「きちげぇみたいなやつが来たぜ!」とか「きちげぇかよ!このゲームは!」とか、「頭おかしって!キチガイだわ」とかおそらく大した意味もなく表現を「悪く、かつ誇張に表現できる言葉として、いわゆるスラング的な意味合いやヤンキー言葉として使うコミュニティはおそらくあるのではないだろうか。
そこで使われる言葉たちは、その集団や個人の個性があふれていると思うが、彼らは差別したいがために使っている言葉ではなく、そのコミュニティの共通言語としての役割を担っているのではないだろうか?ヤンキーのコミュケーションが「マジやばくね?」とか「キモくね?」とか「死ねよ」とか「ガイジかよwww」とかそう言った言葉が沢山出てくるのはおそらく、それでしか自分たち正しくを表現できないからである。そういう意味でそのグループがそのグループたらしめる言葉遣いが発生するのではないだろうか。
「キチガイ」意外にも「沼」や「ノータリン」など、普通に生きてる人たちにとっては「そんなの言っちゃいけない汚い言葉だよ」と言うものでも、そのコミュニティ次第では「おもしろ誇張表現の一つ」として捉えているところもあると思う。
日本人が外国人に対して「キチガイか?この言語は?」とか言ったらおそらく多くの日本人が「これは差別発言です」というだろうし、海外日本言語学者も「これは、差別発言だと思います」と言うだろう。
無論、この言葉たちに侮蔑、嘲笑の意味や下に見る考えがが無意識でもあるのは私は認める。
しかしながら、無意識下における差別自体を差別問題として見るならば、putain以外にもその場の空気感、彼らの生活してきた環境を見なければならんと思う。
醜い言葉でしか自分たちを表現できない者たちを直ちに差別主義者として決めて良いのだろうか?その見方は、お堅いのではないでしょうか。
そりゃ切り取られれば「差別発言」になるが、「はーい差別発言ー!なんて酷い奴らだ!よーし俺らもなんでも言って良いよね!」的な立場を取る人間には私はなりたくはない。

もちろんこれは仮定の話であって、もしピュータンが日本語ではこう言った具合に使われるってことならば、と言うものである。

若者言葉やヤンキー言葉、悪い人たちによる言葉遣いを裕福で幸せな生活をしてきた人たちが正確に評価できるだろうか?その言葉たちがどのように彼らに使われるのか、なぜ社会一般に使っちゃいけないものを使うのか?などを考えていく必要があるのではないだろうか。これはおそらく社会学などの分野が妥当なのではないでしょうかね。
もはやこの問題は「言語」としての問題より、「社会」としての問題を孕んでいるような気がする。
もしひろゆき氏が「コミュニティの言語の使われ方」について意見したのなら私はそこまで間違った意見には思えない。
putainという言葉を使う人たちを直ちに差別主義者と呼んで、何でもかんでも叩くことは、問題の本質を見誤っていると思う。
彼らの生活や経験、立場などを考えなければこの言葉がいかにして出てきたかを読み解けないからだ。
もちろん、フランスの言語学者はそう言った点も含めて「差別発言に変わりはない」と言ってるのかもしれないが、その言葉だけで結論づけると「差別発言」問題としての見方しか出来ないのではないだろうか。これはもっと根深い問題があるのだよ。。と諭して欲しい。もう一つ突っ込んだ指摘が私はどうしても欲しい。差別か差別じゃないかが大切なことではない気がするからだ。

まとめると、putainという言葉自体が差別的か差別的じゃないかではなく、その言葉がなぜ使われ、どんな使われ方をどんなコミュニティがしているのか、についての議論が必要であると考える。
しかし、ピュータン論争では「putain」という言葉のみの評価をしているようで、ちっとも面白くない。立場によって話が変わるならお互いが納得できる物の考え方をするべきである。それこそこの問題の本質がどこにあるかを見極める必要がある。私はフランスの言語学者やひろゆき氏だけでなく、フランスの社会学者、日本の社会学者に言葉の使われ方を論じて欲しいと切に願う。


ひろゆき氏は短絡的に人を「頭が悪い」とかいうことが多々ある。もちろんひろゆき氏の性格や価値観をよく見てる人たちはひろゆき氏の「頭が悪い」とかはまぁそんなに深い意味がないことがわかるだろうが、急に吹っかけられた人は「なんだこの非常識人は!」となってもおかしくない。
ひろゆき氏はそういうフシがあるのだ。
じゃあこれはどうなの?とつっかかるフシがあるのだ。しかしそれを他人に分っとけ!ということはできない。
いちいちひろゆき氏がなんであるかを正しく捉える義務はないからだ。
だから人は丁寧に相手を傷つけないような表現を用いるのだが、ひろゆき氏はそんなことしないのである。
だからこそ無駄に論争を激しく燃やしてしまう、相手をピリつかせてしまうのではないでしょうか。

だからこそこの問題は、ひろゆき氏とフランス言語学者の口喧嘩の要素を含み、お互いが書き込みだけで語り合うような非常にコミュニケーションが行き届きにくいなっている。
まぁどうでも良い人たちにとっては面白いトピックとして片付けられるだろうね。

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