note甲子園第三回戦作品『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』の一コマ映画の解説
(あらすじ)街を蔓延るナイトメアを成敗する魔法少女たち。だがほむらはなぜか、この理想的ともいえるこの世界へ違和感を感じていた。やがて『円環の理』の記憶を取り戻した彼女は、まどかを救う為に絶望の境界線を越える決意をする・・・。
さて、ここでは以前発表した一コマ映画の『『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』という作品を解説したいと思います。
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●はじめに
実はこの作品の一コマ映画は、これまでの発表してきた作品とは少々趣が違っております。それは以前プランニングにゃろさんと雑談した時に、この「作品が心の映画」、そして「男爵の映画批評は辛口だからな~」と言われたことがありまして(え、そうだったの?私全然そんなつもりなかったのに~w!)、またある人から「これまでの一コマ映画から、その先の表現を見たい」と言って頂いたことが重なって、「それならばもっとがっつり、出来るところまでやってみるか!」と鼻息あらくして描いた作品が本作品だったりするのです。
(それが無ければいつものように『・・・難しい過ぎる』の一言で終わらそうとしていました、ごめんなさいにゃろさんw)
そんな訳でこの作品は『″入れられる情報が限られた″一コマ映画で「批評」したらどんな感じになるか』というコンセプトのもと作られた作品でもあるわけです。
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とは言いつつも、ここで物語の構造やストーリー展開について語ることはしません。何より私には難し過ぎるしw。
私が解説するのは、『この一コマ映画で何を描きたかったか?』という部分に限らせて頂きます。何を思った結果、この一コマ映画になったのか、という解説ですね。
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●この映画について
まず、この映画の解説をばw。この映画(というかマドカ☆まぎかシリーズ)のテーマって、私は『叶わない片思いの話』だと思っているんですよね。
物語の主人公は鹿目 まどか(しかめまどか)ですが、構成上では時間を操る暁美 ほむら(あけみほむら)だと思っています。彼女が初めて心を許せた絶対的な親友(と思っている)鹿目 まどかとの友情を成就したいんだけど、それが叶わず世界のルールまでも変えて、その想いを成就しようとしている物語だと思っています。
そして今回の映画で、『一旦は納得していた関係性(つまり鹿目 まどかにとっては暁美 ほむらは、大切なたくさんの友人の一人ではあるけれども特別な存在ではない)が、やっぱり納得出来なくなって、もう一度世界のルールを変えて自分のモノにしたくなっちゃった』みたいな話ではないかとw。
魔法少女とかインキュベーターの設定とかを考え出すとあまりに複雑なので、今回は言及しませんw。あくまで私が認識したこの物語は「こんな感じ~」という前提の元で、一コマ映画の解説をさせて頂きます。
●なんで『引きこもり』?
さて、この状況を『もっと違う形に置き換えるとしたら、どんな状況だろう?』ということを考えました。その結果、思いついたのが『引きこもり』という状況です。
何年も自分の部屋に閉じこもっている人、いますよね。働くわけでもなく、一日中部屋に閉じこもってネットやゲームをしている人。でもその人にとってはその人なりの世界があるし、絶望や喜びもあったりするわけです。そんなある日、その人に好きな人が出来たとします。それはアイドルでもいいし、ネットで知り合った人でもいいし、同級生でもいい。
きっとその引きこもっている人は『この想いをどうにかしたい!』と思うんじゃないかと思うんです。今の状況を考えるととてもどうにか出来る状況ではない。でも想いだけは募っていく・・・。
『どんなに頑張っても、ワルプルギスの夜に殺されてしまう殺されてしまう鹿目 まどか。暁美 ほむらは何度も時間移動して、パラレルワールドで何度彼女を救おうとするけれども、彼女は友達、あるいは守るべき者の為に(それは私だけではない)自ら進んで破滅の道へ進んでしまう。彼女を守るためだけに行動しているはずなのに、いつの間にか周りから友達は減り、まどかとの関係性すらうまく築けない。暁美ほむらの周りの世界はどんどんと味気なく、無味乾燥化してくる。でもそれでもいい。″あの時のまどか″を救うためなら、すべてを放り出してもいいんだ』(でも本当の問題はそこなの?)
『想い人』と『環境の悪化』の関係性、なんとなくそこらへんからイメージしたのかもしれません。
①「解放されたいモノは何?」
『一コマ映画』で書いた「キミは何を求めているんだい?」というセリフ。
これは物語で言えば(つまり暁美ほむらの視点で言えば)『鹿目まどかを救いたい』ということの様に思えます。でも本当にそうでしょうか?
本当に暁美ほむらが望んでいるのは『唯一の親友として近くにいて欲しい』という願いだったように思います。その為に『神』である鹿目まどかから人間としての鹿目まどかを引き離したのですから。
同じようにもし『引きこもり』の人にとってこの質問をしたのなら、どう答えるでしょうか?
『好きな人と付き合えるようになりたい』、もちろんそう願うでしょう。でも本当に望んでいるのはもっと根本的な問題、『この引きこもりの状況から抜け出たい』『自分に自信を持てる様になりたい』という事ではないかと思うんです。これはもしかしたら本人は気付かないかもしれない願望なのかもしれませんが、本質的に悩んでいて、解放されたいと願っていることは『彼女と付き合えるようになる』という願望のもっと根源的な所に『付き合いたいと思う自分に、自信を持てること』があるのだと思うのです。
「キミは何を求めているんだい?」というセリフには二重の意味が込められています。「キミが望むモノ」は、分かっているはずなのにあえて聞くことで「実はそれじゃない可能性があるんじゃない?」という全然違う意味の二つの意味を重ねて書いていたんです。もちろん「引きこもり」を例に出して。
(ちなみに『引きこもり』の話。分かりやすい例として『想い人』を出しましたが、それは何も人でなくても成り立ちます。『同級生が結婚したという話を聞いて』『いい加減社会に出たいと願う気持ち』『絶望から逃れたい気持ち』・・・必要な要素は『外部へ可能性を望む気持ち』と『その可能性の低さ』の関係性のお話なんですねw)
●現実的な手段と幻想的な手段
さて、ではここから問題を解決するために提示した『現実的な手段』と『幻想的な手段』とは何でしょうか?(実はここも意地悪問題があったりしますw)
まず『まどか☆マギカ』の話(なんてったってこれが本筋ですからw)。
簡単にいうと、ソウルジェム(という魔法のアイテム)を境界にして外の世界が『現実的手段』、ソウルジェムの中の世界が『幻想的手段』です。どういうことか。
現実的な手段とは、『現実を受け入れる』ということです。それは『円環の理』(世間の常識、ルール)を受け入れ、まどかの愛(友情)を『皆と同じように受け入れる』ことです。(『引きこもり』の話でいうなら、外へ出て女の子に告白することです。)
これは、本当に求めている願いの『一部分』しか叶いません。まどかを身近に感じることは出来ますが、すぐ隣にはいない。もちろん独り占めもできません。
そして引きこもりの話でいえば、付き合える可能性もゼロではありませんが、やっぱり可能性は低い。けれど、少なくても社会へ出て何かは経験できる。
どちらも『100%満足は出来ないけども、ほんのちょっとだけ報われる』というのが、現実的手段です。なんだか切ないですねw。
対して、『幻想的手段』というのは、それらをすべて無視しますw。すべてのルールは自分だけで構築し、周りに自分のルールを押し付けその中だけで生きる方法論です。(これは引きこもりの例だと、すごくわかりやすいw外へ出て自分が傷つくのを拒否し、部屋の中だけで(例えばアイドルが好きならば、動画を見て妄想するだけで)完結させるのですw)
『まどか☆マギカ』では、ソウルジェムの中の世界で満足するのが幻想的手段です。
たとえ作り物だとしても、あるいは借り物の世界だとしても、そこで営まれる世界は自分の求めていた世界で、自分にとって困ることは何もありません。
もちろんそれは閉じた世界ですので、本当の意味で鹿目まどかを手に入れることは出来ないし、(引きこもりであれば)好きな人と付き合うことは出来ません。けれど、いつまでもその想いは傷つくこともなくいつまでも大切に持ち続けることが出来るのです。ある意味で『100%満足は出来るけども、100%報われない』と言い換えることが出来るかもしれません。
作中のソウルジェムという境界線は、現実でも至る所に存在します。『仲間に入りたい時に声をかけるかどうか?』『将来の為に今の仕事を辞めるべきか否か?』『まだ眠たいけど起きるかどうか?』などなどw。そこには常に現実的(社交的)な決断と幻想的(内向的)な決断の二つの中で揺れ動いているのです。
さて、では本作の暁美ほむらはどんな決断をしたのでしょうか?
実際には両方の良いところを美味しい所どりをしたんですw(これが本作の作家性が一番出ているところです)。鹿目まどかを神と人間とを分離させて、『世界のルールを作り変えながら、自分の手元にも存在して欲しい』と願ったのです。(ですので一コマ映画で出した選択肢の中には入っていませんでした。やっぱりイジワル問題ですねw)
では、この選択はハッピーエンドになったのでしょうか?
私はそうは感じませんでした。現実に幻想を持ち込むことが不可能なように、どこかで破綻する可能性を感じます。それらを論じるには長くなりすぎるので割愛しますが、例えるなら『引きこもりが、想い人とつきあう為に、一生懸命プロフィールを変え、写真をイケメンにして会う約束をした』って感じでしょうかw。どこか、不穏な空気を感じる。
もちろん、現実、幻想、そしてそれ以外の選択と私達はその状況によって様々な選択をします。幻想的な手段が『逃げているから』という理由で駄目な訳では決してなく、それぞれの場面で私達はより自分が楽になる方法論を選べばいいと思うわけです。逃げたっていいじゃない。人間だものw!
●ではハッピーエンドにするためにはどうすればよかったのか?
私は、この物語を『失い続ける話』だと思っています。どんな選択をしても、どんなに何かを求めていても、失い続けるし、哀しみの傷は癒えません。
どんな形になっても、暁美ほむらは鹿目まどかを失い続けるし、彼女がまどかを求め続ける限りその喪失感は続くのです。現実的な手段を取れば決定的に何かを失うし、幻想的な手段を取れば緩やかに絶望に向かいます。
それはなぜかといえば、そこに『他者』が存在しないから。
鹿目まどかが本当はどう思っているのか、あるいはその想いがどう変わっていったか、という描写がない(これは製作者の意図的な狙いであると思います)為に、どこまで行っても『自分がどう思うか』という自分内世界の話になってしまう為に、希望が見出せないのだと思うんですね。
もしハッピーエンド(というものがあるのなら)を目指すのなら、その決断自体を放棄しなければいけない、というのが私の結論ですね。
つまり『鹿目まどかに振り向いてもらうのではなくて、他の友達に特別な人が出来ることに努力する』という選択です。酷な選択ではありますが。
もちろん、これは物語としては反則技であり、それを描く物語ではありません。ただ鹿目まどかと暁美ほむらの『片思い性』を描けば描くほど、その想いの歪さに目を背けるわけにはいかず、だからこそ永遠に成就しないであろうこの物語が切なくなると思うのです。
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以上が私の一コマ映画の解説です。
上記の事は、手がかりや問題提起の部分も含めて、すべて私の『一コマ映画』に込めています。そこから推察される以外の部分は入れていないはずですし、ある意味結論もそこに含まれています。
・なぜ「引きこもり」が出てくるのか。(物語の置き換え)
・「求めているモノ」というセリフ(その裏にある批評性)
・現実と幻想の方法論(テーマの解釈、それらの裏に内包される悲観論)
私が思う『この作品の解釈・解説』を目一杯膨らませて、煮詰めて、脱線して、再統合した結果が、今回のこの『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』の一コマ映画になった訳です。
・・・まぁ、分かりませんよねw?
ただ、私が思っている『批評(レビュー)』として一コマ映画を描くとどうなるか、という実験として今回の作品を描かせて頂きました。ここまで描けば、「私は一コマ映画でレビューしている」といえるラインかな、と。
実際には解説しないと何のことやらという感じですしw、観た映画をすべて一コマ映画でレビューしようとすると時間も手間も膨大になるので、今後も続けるかどうかは分かりませんが、ちょっとでも『一コマ映画のちょっと先』を感じていただければ、嬉しい限りだったりします。
今回はちょっとばかり、堅苦しい話(しかも長いw!)になってしまいました。時々語りたくなる長話のクセをどうにかしないといけません。長話男爵は話が始まると止まらなくなるので、徐々にみんなが遠ざかってしまいますから。
「まってー、みんなー。もう長話男爵はいなくなったよー。今はただのクラゲ男爵だよーw!」
また、これからも気楽に『一コマ映画』を楽しんで貰えれば幸いです。
クラゲ男爵(yukiさんからの駄々漏れの友情を受けて)
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