「臓器哲学」~業と心を結ぶ臓器~

心とは何か?

「人間は何のために生きるのか?」は長年の哲学的テーマです。

その問いの答えをめぐって様々な議論が繰り広げられてきました。そうして最終的に行き着く議論は「そもそも人間に心(意志)はあるのか?」という問いです。なぜなら「人間には明確な意思があると言えるのかどうか」を定義できないと、その意志の先にある「なんのために生きるのか」という問い自体が成立しないからです。

人間に「心」はあるのか?
人間に「心」があるとして、それはどこにあるのか?

古来、人間は「心」は心臓にあると考えてきました。「胸が痛む」、「胸が弾む」、「胸が張り裂けそう」…などという表現は自分の心情を表す言葉であり、それが心臓にある事を表しています。
西洋でもごく近代まで「心」は心臓にあると考えられ、中世から近代にかけて発展した解剖学でも「脳」はあくまで目や鼻や耳の延長の感覚器官に過ぎないと考えられ、解剖時に人間の脳はすぐに捨てられていたほどです。やはり「心臓」が「心」の所在であるとして考えられていました。
ごく近代になって科学の発展と共に医療機器が発達して初めて「脳」が心の所在として考えられるようになってきました。人間が思考するたびに脳の中で電気信号が発せられることが確認されるようになったからです。

では、人の「心」は「脳」にあると考えていいのでしょうか?

例えば、食事をする時に人間が考える「おいしそうな食べ物を見る」「腕を動かし食べ物を口に入れる」「おいしい、と味わう」「程よく噛んだところで飲みこむ」「のどが渇いたので水を飲む」「美味い!と満面の笑みになる」という行動を一つ一つ吟味していくと、実はこれらの作業は各臓器、筋肉、神経細胞の働きで各自の要請に従って働いているという事がわかります。
空腹を知らせるのは胃袋。美味しい食べ物を考える(探す)のは脳の記憶(美味しかったもの)、目(いい色合い)、鼻(いい匂い)。各感覚器官と臓器が「心」の出発点になっているのがわかります。脳はそれらの情報を統合しているだけで明確に「意志」があると断定できません。それはどこまでが「自分の心」と言えるのでしょうか。

食事をするという動作一つ取っても様々な感覚器官や臓器からの要請で行動しているのに、自分ではそれを「自分で考えた」と考えている。そして、そう考えていて何の問題もない。ほとんど物理的要請で行動しているのにも関わらず「私」は「心」の赴くままに行動している、と(自分では)思っている。

「私の心」という唯一絶対のものが実はずいぶんざっくりとしたものであることがわかったと思います。胃袋からしたら「腹減った、は俺の意思だけど何自分が考えたことにしてんの?」と文句言えますね。

実は近年では、また逆に「心臓に心がある(かも)」と考えられるようになってきています。それは医学の発展により臓器移植が可能になり、人の心臓を移植された人が「元の人の記憶(習慣)」をも受け継ぐ…ということが確認されるようになってきたからです。自分では知らないはずの風景を「知って」いたり、特に興味がなかった食べ物を「大好き」になったりして、実はそれが元々の心臓の持ち主の記憶、習慣であった事がわかったのです。
そうしたことから「心臓にも記憶(心)」がある、と考えられるようになってきました。

つまり「心」とは自分の体の感覚器官や臓器、心臓などの総体として存在すると考えると、人間の心が求める「人生の目的」は感覚器官や臓器が求める物である。そう考えることができます。俗に3大欲求と呼ばれる、食べる、寝る、性欲も実は臓器や筋肉からの要請ではないでしょうか?
ではもっと高尚なテーマ(?)である、私達の「人生の目的」や「生きるとは何か」という問いの答えはどうなるのか?

不幸の源泉は「業」?

インド哲学用語で「業」と言う言葉があります。仏教用語にもなっているので我々日本人にもなじみ深い言葉です。「業」は言い換えれば「生きる上で避けられない不条理」を指す言葉で、例えば「生き物は生き物を殺生する(食べる)ことで生きる」、「生命は生まれて、老いて、死ぬ」、「愛する者はやがて失われる」…などなどです。
西洋では「業」の事を「原罪」と呼びます。エデンの園にいたアダムとイブが禁断の実を食べたことで神の怒りを買い追放されます。いわゆる「楽園追放(失楽園)」です。楽園を追放されたアダムとイブはそれまで不老長寿だったのですが、追放後に寿命が与えられ死ぬことが定められました。
つまり「人は愛(性行為)を知って死ぬようになった」という事です。

「業(原罪)」が不可避なのは「食事」の例でも分かる通りです。人は胃袋からの要請によって他の生命を「摂取」します。そして人が死ぬのは細胞が劣化していくからです。肉体の維持には限界があるのでその人間のエッセンスだけを「遺伝子」としてその子供に引き渡します。異性と生殖し、子供を作る事は精巣、卵巣、そして遺伝子からの要請です。一度に約3億ほど射精された精子が卵子と受精できるのはたったのひとつです。人は生まれる前からすでに過酷な競争原理にさらされています。強い精子だけが受精できる。つまり人間は生まれながらに「強者」であり「弱肉強食の世界」を生きる業を生まれる前にすでに運命づけられているのです。

実は業は人間に不幸をもたらす源泉のようでいて、実は幸福をもたらす源泉でもあるのです。

生殖行為も結局は体からの要請(遺伝子からの要請)に過ぎないのですが、人の心はそれを「恋愛」と感じます。「愛」とも言えます。人が幸せを感じるその大きな一つが恋愛なのは男女なら誰でも知っている事です。恋愛は「業」の中でこそ「心」が充足を得るという典型的な一例です。


人間社会の「業」

21世紀になって盛んに耳にするようになった格差社会。実はそれ以前から格差社会は存在したのですが、グローバリズム社会になってそれが加速度的に世界中に広がっています。格差社会を生み出す根本的な要因は資本主義と言う社会システムです。

資本主義が抱える格差問題は本当に社会システムに問題があるからでしょうか?問題がある事は間違いないのですが、格差問題は資本主義以前から存在していたのは歴史を少し除けばすぐにわかる事です。近代以前は世界中が身分制度社会であり、身分制度は貧富の差によって裏打ちされています。
資本主義であれ、共産主義であれ、封建主義であれ、奴隷制度であれ人間社会は常に格差社会として構成されていたのが事実です。それはつまり人間社会は常に競争社会であり、弱肉強食の社会だった。もっと言えば人間社会以前のサル社会、それ以前の生命誕生から連綿と続いてきたのは想像するに難くないのです。

人間社会が弱肉強食の世界であることも業です。なぜなら「生命が他の生命を食して生きる」という事実によく似ているからです。資本主義が抱える根本的問題も業と言えます。それは人間が生まれる前に、3憶分の1の精子のみが目的達成(受精)できるという事実に似ています。

受精を巡り、人間は競争社会に生まれる寸前から競争という業を背負わされている。人として生まれる、という事は(少なくとも)3憶分の1の競争の勝者である、という事です。全ての人間は勝ち組として生まれてきています。

「楽園追放」の原因となった「知恵の実」は原語では「善悪を知る樹の実」です。ヘブライ語の「知る」は男女が異性とセックスした場合にも使います。つまりアダムはイブを「知って」…セックスをした…ことで死ぬようになった。生殖行為が個体の死に繋がる、というのはなにか因果めいたものがあります。

資本主義という社会システムの問題が、弱肉強食という生命の業に起因しているとしたら、「業=臓器からの要請=心」という公式も有効であるという事になります。つまり弱肉競争の中にも人間が幸福になる要素があるという事です。

スポーツ競技の「歓喜」も「業」が源泉

弱肉強食、競争社会の喜びが一番わかりやすいのはスポーツの世界です。アスリートにとっては勝つことが最上の幸せです。一般人においても、営業成績が上がった、学校の成績順位が上がった、開発した商品がヒットした…なども「勝つ喜び」です。いい家に住む、いい環境で生活するも「勝者」の喜びです。

スポーツの世界、一般社会において「弱肉強食という競争原理」が「幸せ」という概念を作り出していることがわかります。つまり「業=心」。業があるから人は幸せになる事ができる、と言えます。

人間を因果律で苦しめる「業」は、むしろ「心」を充足させ得る唯一の無二の価値基盤であることがわかると思います。人生で最も目標とされるであろう「仕事」「食事」「恋愛」が全て内臓からの要請である。「人生の目的」「生きる意味」という問いへの答えは最初から目の前に用意されていると言える。

「業」という束縛が「心」を自由にする

体や臓器、遺伝子などから「達成しなければいけない」という命令にも近い要請が、実は「自分の意思で達成したい目的」でもある、という事実。人間が一番「自由」を感じる瞬間は「束縛」を満たした時である、という事実。自然から強制される生き方こそ自然な生き方であるという事実。

「業=心」「自然的束縛=自由意志」

一見反対語に見える概念が実は一番人間の実在を表している。哲学者や宗教家が「理想の人間、理想の社会」を本来の姿と説きながら、同時に目指すべき目標のように説く矛盾(に見える)がまさにそういう事で、本来の自分を捉える事が哲学の目標。

生きる目的は生きる事である。

「生きる」という事実をはっきり捉えることが、「生きる意味」という真実(目的)を得る最良の方法と考えられます。そのためには「頭(脳)」だけで考えずに、「臓器」で物事を考えるという思考法は心と体を豊かにすると思います。
心と体は一体、という事です。

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