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Ditto

「なにか、歴史に残るものを見てしまった」と、初めてMVを見た時に感じたことを、今でも鮮明に覚えている。悲しいような、寂しいような、怖いような、とても一言で形容することのできない感覚が、胸の内に広がった。
「ずっと目を逸らしていた、見たくない現実を見てしまった」気分。

私たちファンのほとんどが、恐らく何十年後かには「私たちの現実」を歩むことになる。今夢中になって応援し、毎日のように熱狂し、コンテンツを追う日常にも、いつか必ずさよならを告げる。それは否定しようのない必然なのだ。ただ、そんな忙しない日々も私の人生の一部で、彼女たちを一心に追い続けている美しい思い出だけが、間違いなく、ひとつひとつきれいに、幸せな瞬間、記憶として身体に刻み込まれていく。

それでも、今こんなにもきらきらと輝いている彼女たちが「記憶の中だけの、過去の人」になってしまうことが、私はどうしようもなく怖かった。目一杯の愛を注いで、そしてそれ以上の愛を返してくれている彼女たちが、私の生活から消えてしまう日が来るという、紛れもない、避けられない事実が、悔しかった。年齢を重ねて、目の前に現れてはくれない人たちになってしまうという現実から、目を逸らさずにはいられなかった。頭で理解はしていても、その現実と対峙することが、この上なく怖かったのだ。Dittoは、私が向き合うことを避けていた現実を呼び起こした。
でもDittoには驚いたことに、きちんと温かさがあって、冷酷な現実を眼前に突きつけるだけのMVではなかった。寧ろ、そんな現実を肯定しているように感じ取れた。大人になったヒスがカセットテープを見て回想する場面が、その全てを表している。表舞台を去っても、彼女たちを愛おしむこと、思い出すこと、私の中の「記憶」に触れること。それだけで、彼女たちは私に「永遠」の欠片を与えてくれる。幻想などではなく、この世に「永遠」は確かに存在するのだと、微笑みかけてくれる。

そうやって、ただ「記憶の中の人」になってしまうことは、必ずしも悲しくて、恐ろしいだけではない。彼女たちと一緒に過ごした日々も、将来歩むことになる現実も、すべて、愛おしい私の一部になる。そしてそれを大切に抱えている限り、もう充分なのだと。
彼女たちのアイドルとしての終焉が来ようとも、私たちの記憶と思い出の中で生き続けることができれば、終わりのない「幸せ」であり「永遠」なのだ。
彼女たちがその終焉を迎えるまで、Dittoという楽曲とそのMVを大切にしたい。

NewJeansへ Dittoという楽曲に出会わせてくれて、ありがとう。
Dittoへ NewJeansという存在を、よりかけがえのないものにしてくれてありがとう。

これからも、DittoとNewJeansが、たくさんの人に愛されますように。

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