移り変わる自分
初めて『自分』という存在に明確に疑いを持ったのは小6か中1だった気がする。
その時のことを鮮明に覚えている。
勉強机に座っていて、「自分とは何だろう?」という思想に耽(ふけ)っていた時、自分の奥にある広大な宇宙を感じてとてつもなく怖かったのを覚えている。
でも怖いんだけど、未知のものへの好奇心も強く、奥に入りたいけど怖くて入れない、けど入りたいという一進一退を繰り返していた。
その奥に入っていくと、まるで『自分』という存在がなくなるかのような、自分が自分じゃなくなる恐怖。
死んだことはないけれど、死ぬことよりも怖いことがあるのだとどこかで感じていた。
そんなことをすっかり忘れて大人になったある日、また"ソレ"を垣間見ることがあった。
きっかけは特にコレっていうものはないが、自分というものを追究していくと、どうしても何にも例え難いとてつもない広大な宇宙と恐怖。
いろんなものを手放していき、自分を手放す段階になったからこそ味わう怖れ。
自分とは何だろう?
私は『自分とは自分だと思い込みたいエゴ』なのだと思う。
自分なんてなくて、『◯◯が好き、◯◯が苦手』と思い込むことで保っていられるエゴ(思い込み)。
自ら分けると書いて、自分。
自分、時分。
自分とは時分によって変わる。
自身とは自信であり、地震によって揺れ動く。
地震は偽物の自身や自信を崩し、本当の自分を明るみにしてくれるのかもしれない。
でも、大切なことはどんな自分でも愛されたいということだと想う。
どれだけダメダメな自分でも、どれだけ情けなくても、どれだけ甘えたがりで臆病な自分でも愛されたい。
どれだけ凄い経営者のような自立したっぽい人でも、どこかで母親に甘えたかったりするのだろう。
私にもそういう側面がある。
でもそれでも、私は母親ではなくこの広大な宇宙に甘えたい。
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