私の推しはこの世にいない


四月五日は推しの生まれた日だ。
もうすでにこの世にはいない。

数年前に自ら空に駆け上った。


あの日からファンになった。
それまではキラキラした俳優の一人だった。
ドラマも映画もほとんど観たことはなかったし、彼が舞台をやってる事も知らなかった。

実は彼には一目惚れした過去がある。

たまたま付けていたテレビドラマで一瞬で目を奪われた。

彼は輝いていた。パァッと画面が光った感じがした。

名前も知らない、役名も知らない、何のドラマかもわからない。偶然の出会い。

あのアイドル事務所の子かな?何て子なの?とすぐに調べた。

三浦春馬

初めて聞く名前だった。
この子は絶対にこれから出て来ると確信を持った。何も知らない状態で人を虜にする人はスターだからだ。生まれ持っての華と才能を持つ原石だ、絶対有名になるぞこの子はと思った。

その後、彼はあのセンセーショナルな作品「14歳の母」でヒロインの相手役を務めた。

学生帽を被り物憂げな表情で佇む彼を見て「とても平成生まれとは思えないな」と感じた。
どこか昔の小説の登場人物のような、サナトリウムの窓際で微笑んでいるような非現実的な存在。

やっぱりこれから世に出ていくぞと思ったから安心して推さなかった。売れる子は売れる。


二度目の再会はラストシンデレラ

あの美少年がこんなに色気を纏った青年になるなんて驚いた。

最終回の日は朝から番宣に出ており、23歳の彼はすごく自信ありげで堂々とした子に見えた。

ああ、この子はずっと残っていくだろうなとそれからもハマる事はなかった。

だけどラスシン以降はあまり見なくなった。
最後に彼の名を聞いたのは熱愛騒動だ。
相手に対しても「やっぱり才能のある子は同じように才能のある人を選ぶんだな」と漠然と思った記憶が何故かある。


三回目がまさかあんな悲しい再会になるなんて想像もしなかった。

好奇心から雑誌、掲示板、ブログ、いろんな媒体で明かされる彼の生涯を読んで私は自分の見る目の無さに呆れた。


何で大丈夫だなんて思ったんだろう。この世から消えたいくらい悩んでたんじゃないか。
何で外見のキラキラだけ見ていたんだろう。こんなにも繊細で努力家だったんじゃないか。

毎日泣いて過ごした、ファンではなかったのにものすごい喪失感に襲われた。

あのまま囚われていたら今の陰謀論者達みたいになっていただろう。憶測や妄想で事務所を恨み、彼の友人を誹謗中傷し、同業者に嫉妬する。動画配信者の言葉を鵜呑みにし、占いを信じ、彼を盾にしてデモを行い、別の思想の鴨にされ行き場を失っていく人達。

彼女らの姿はもしかすると未来の私だったかもしれない。


行き先を変えたのは一本の作品
「わたしを離さないで」

たまたまAmazonプライムビデオにあった見放題作品

あれを見なかったら私はのぼりを担ぎデモをしていたかもしれない。あくまで可能性としてたが100%ないとは言い切れない。

「わた離」は役者三浦春馬の入り口になった。

キラキラだけではない、イケメンなだけではない。そこにいたのは人であり人ではないクローンという難役。暗くて重いドラマで救いがない。なのにぐんぐん引き込まれた。主要役者の力量ももちろんだが、そこにいた彼は確かにその物語上に生きていた。広斗君はどこにもいなかった。

「罪と罰」という舞台の放送も見た。
こちらも暗い、人間の葛藤の演技をこれでもかというくらい激しく捲し立てる、全身を使って表現する苦悩ややるせなさ。重い重い舞台のカーテンコールで彼が初めて笑顔を見せた。
やり切った達成感溢れる快活な笑顔、ああこれが素顔なのかなと思った。先ほどまでの悩む青年はどこにもいなかった。

それから彼は一体どんな俳優だったのだろうと過去作品を辿り始めたのかきっかけでハマっていった。
何で今更?もういないのに、苦しいだけなのに。

馬鹿みたいに見まくった、サブスクやDVDを買い漁り彼専用の棚が出来るくらいまでになった。

見初めて数ヶ月経った頃は彼の死に対しての
理由などどうでも良くなった。好奇心も消えていた。受け入れたわけではない、もやもやは残っていたが。

それでも彼の作品を見ている時間は幸せになった。

10代は素直な演技でドラマや映画の中を自由に駆け巡り、若さならではの感性で魅了する。

20代前半は年齢を重ねると共に色気も持ち始め恋愛ドラマだけでなく社会派ドラマでも頭角を表す。

20代後半は時代劇、サスペンス、コメディー、ミュージカル、ストプレ、役だけでなく様々な媒体で活躍し多才さと存在感を確立。

こんなにたくさんの作品があったんだ。
こんなにたくさんの役を生きていたんだ。

彼のプライベートを漁るような事はほとんどしなかった。X(旧Twitter)もインスタもファン向けのように思えたし彼は役者三浦春馬としてずっと生きていたんじゃないか?そう思うと何となく一人の青年としての彼には興味は無くなった。

誰もがいう優しくて誠実な青年に嘘はないと思う。でも彼にとってファンに見せたかったのは自分が演じた作品であり役でありそれ以外の物はなかったと思う。

普通の30代の青年だったと思う。
よく食べてよく笑い、時には悩み時には怒り、どこにでもいる青年、ただ役に入ると生まれ持った華と才能で魅了する。周囲もそれを分かっているから彼に期待が集まったのだろう。一部では冷遇とか言われているが干された俳優にショーケースライブを計画するだろうか。
音楽でも期待されたからお披露目ライブをやらせようとしたのではないだろうか。

その期待が重荷だったのかそんなの誰にもわからない。彼の友人は「彼はいつもプレッシャーと戦っていた」と言っていたがもしかするとそのプレッシャーでさえも楽しんでいたのかもしれない。



私は所詮後追いファンだから彼を知らない。

彼をずっと応援してきたファン、彼の舞台をその目に焼き付けた人達、直接手を触れた人達。
その人達にはあるものが私にはない。

彼を知っている人ほど悲しみは深い。そんなの当たり前だ。ファンだって長ければ長いほどその苦しみは大きい。過去のアルバムに縋るしかない。新規のファンなんてその人たちから見ればただのにわかだ。

「亡くなってから好きになったくせに」
「今頃言うなら何でもっと前から応援してくれなかったの?」
「いなくなってから急に良く見えたんでしょ、すぐに飽きるよ」

突き刺さる言葉は正論でしかない。

だからってどうすればいいのだ。後から好きになってはいけないの?

彼の死に疑問を持ち、違う方向に行った新規の人達とは分かり合えない。気持ちも立場も中ぶらりんのまま2020年を過ごした。

思い出がないのは悲しい。
生で演技を見たかった。
歌を聴きたかった。
手を触れて見たかった。
あの笑顔を見たかった。

そう思えば思うほど後悔の念に苛まれる。
だってそうだ。

彼の死がなければ彼の生を知る事が出来なかった。

もし彼が今も存命なら私はきっと知らないままだっただろう。他の推し活動に集中して名前を聞いても「ああ、相変わらずカッコいいな」くらいに思った程度だったろう。それが想像できるから辛い。

ずっと別の道の推しを追っかけていてある日突然他の道の光が消えた。何だろうと見に行ってそこで悲しみに暮れる人達を見た。

その姿を目の当たりにした人間が道を逆に辿り降りれなくなった。
それが私。

道を降りるのは簡単だ。なのにもう遅い。
彼の魅力にはまり囚われてしまった。
もう何年も過去の道を歩き続け今も変わらない。

踵を返してもこの先には何もない。
未来がないのに進めない。

今年の7月で丸4年になる。
後何年こんな思いは続くのだろうか。

スマホの画面を開けば、DVDを再生すればいつでも彼がいるのに見終わった後の心は空虚だ。

新しいドラマ、舞台、映画の情報が出るたびに思い知らされる現実。 


私の推しはこの世にいない。





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