上手くなる

近頃ハマっていることが二つある。一つは麻雀のオンラインゲーム。もう一つは、絵の練習。一回一、二分で描く人物スケッチだ。

二つの趣味を一定期間続けてみて、どちらも上手くなってきた。麻雀は勝ちが増えて昇段し、人物スケッチは線の迷いが減って、より正確に形や動きを捉えられるようになってきた。

継続していると、上手くなる。上手くなると楽しい。
これは当たり前のことかもしれないが、不思議な感じがした。上手くなるってこんなに安心するものなのか。

考えてみるに、自分はこれまで、上手くなるという経験をあまりしてこなかったのだと思う。…というよりも、上手くなることを目指してこなかった。

努力をしてこなかったわけではない。自分が人生で努力したといえることの一つは、絵である。大学生の頃、自分が納得する絵を描くためにかなりのエネルギーと時間を使ったと思う。その努力の結果として、ある意味では上手くなったといえる。

しかしそれは、麻雀や人物スケッチが上手くなったこととは微妙に違う。
麻雀や人物スケッチは、基準がはっきりとしている上手さなのだ。麻雀なら勝てるようになること、人物スケッチなら、よりその人物らしく描けるようになること。それは多くの人が認める評価基準に沿っている。

大学時代の絵はいわば自己表現であって、基準は自分の中にあった。むしろ当時は、世間の評価基準に沿った上手さを否定してさえいた。だからその意味では、むしろ上手くなってはいけない、と思っていた。継続や知識によって得られる技術というものを、どこかで疑っていた。

世の人々の営みは、勉強や継続による技術の獲得、つまり上手くなることが基本になっているということを今更ながら思った。上手くなることは、どこでも望ましいこととされる。上達について調べると、出てくる情報のほとんどはいかに上達するかの方法であって、上達そのものに疑いの目線を向けたものは見当たらない。
しかし芸術表現の世界では、ヘタウマやアウトサイダー・アート、あるいは子供の絵にある種の純粋さを見出だすなど、上手くなることを必ずしもよしとしない考え方が存在する。
そういったものに若い頃に触れたからか、上手くなることはいいことだ、という常識を素直に受け入れられないところが自分にはある。そういうことなのだろう。

上手くなることは、レールに乗る安心感がある。
反対に、上手さに到達できない苦しみもある。
上手さのレールに乗るには、まず自分が下手であることを認めなくてはならない。しかし一旦それを受け入れることができれば、時間を掛けて上手くなることの安心が得られる。それは実はかなり大きな安心なのだ。社会に属して、そこで認められる安心感だから。

レールに乗らないなら、常に不安と闘うことになる。社会との食い違いに悩まされる。

上手くなるとは、社会への適応だ。得られるメリットはとても大きい。
しかし同時にわずかでも、上手さへの疑いの目は持っていたいとも思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?