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謎の“哲学対話SNS”、「Dialog」について

 “哲学”という学問と“SNS”の相性は、比較的良いといえる。議論や対話が重要視される哲学にとって、不特定多数とコミュニケーションをしやすいSNSは、その場所として有用だからだ。Twitter(現X)はとくに、テキストメインであることと、他投稿への言及がしやすいことから、ゆるく“哲学界隈”のような繋がりができている。
 だが、それらは特に哲学専用のサービスというわけではない。しかしそんな中で、なんとコンセプトから“哲学”を売り出してデビューしたSNSが存在したことを、あなたはご存じだろうか?その珍妙なるSNSの名前を、「Dialog」という。

Dialogってなに?

 Dialog。日本語で「対話」を意味する英単語を冠したそのSNSは、その名が示す通りに「哲学対話SNS」を標榜し、“知識や学問を必要とせず自分の言葉で哲学する”ことをコンセプトとしている。近年、“市民に開かれた哲学”をウリにする「哲学カフェ」が日本でも盛んになっており、このSNSもその流れを汲んでいるものだろう。コンセプトそれ自体に対する評価は、ここではひとまずしないことにしておく。
 さて、このコンセプトは、どのようにサービスの機能に反映されたのだろうか。ただ哲学対話がしたい人たちで集まるSNS、というだけなのだろうか。そうではない。このSNSは、「フィロソフィー」という名の独自の機能により、他とは一風変わった「哲学対話SNS」ならではの体験を実現している。

 フィロソフィーとはどのような機能なのか。これはTwitterで例えるならば、Dialogにおけるツイート(今はポストだが……)であり、サービスにおいてもっとも基本的な投稿機能である。しかし、他のSNSにおける投稿機能との決定的な差異は、質問に対する回答という形でしかフィロソフィーを投稿することができないことである。
 フィロソフィーの投稿は、“回答する”というページで、ランダムに表示される五つの質問に対して回答の文章を書く、という形式でしか行えない。たとえば、「人間ってなに?」という質問を選び、それに対し「考える葦ですね」のように回答する。そして投稿が完了すれば、タイムラインにはそのフィロソフィーが並ぶことになり、“哲学対話”が成立するのである。ずいぶんシンプルな対話である。
 もちろん、表示される質問もユーザーが問うたものであり、ユーザーはいつでも制限なく問いを投げかけることができる。ただし、質問の形式は制限されており、「〇〇ってなに?」と「なぜ〇〇は〇〇?」の二つのフォーマットでしか質問できない。まぁ、問いの形になってない質問ばかりでは成り立たないので、この制限は妥当だろう。

 このフィロソフィーのシステムこそが、Dialogを「哲学対話SNS」たらしめる所以である。このように、システムはなかなか斬新で、コンセプトをうまく実現した機能を備えた、なかなか意欲的なサービスではあった。しかしながら、過去形で表記したことからも分かる通りこのDialog、すでにサービスを終了している。現在当のサイトにアクセスしても、無味乾燥なエラー画面が写されるのみ。2023年7月3日にリリースされ、サービスの終了は2024年6月28日。1歳のバースデーを迎えられずに、新鋭のアカデメイアは潰えてしまった。

 一応、サービス開始当初はそこそこの盛り上がりを見せていたようで、「ええじゃないか」という富士急みたいなローカル番組で取り上げられるくらいには運営側もやる気だったようである。アーカイブ動画が残っているので、雰囲気を掴みたい方は視聴をおすすめする。


なぜDialogはサービス終了?

 なぜDialogはサービスを終了することになったのだろうか。その理由は単刀直入に推測できる。過疎である。サービスの終了が告知された2024年5月、アクティブなDialogユーザーの数は多めに見積もってせいぜい20人がいいとこであり、その中で定期的にフィロソフィーを投稿していた人は10人もいなかったと思う。これでは、事業として成功する芽がないと判断されるのも当然である。ユーザーの数は先述の状況からほぼ横ばいだったっぽいので、正直、よく続けた方だとも思う。
 なぜDialogは人気を得ることができなかったのだろうか?この質問に回答してフィロソフィーを作るために、私が感じたこのサービスの問題点をいくつか挙げてみようと思う(実は私もある程度ユーザーとして活動していたのである)。なお、そもそも哲学が大して人気ないじゃん、という根本的な問題はここでは扱わない。

問題点①『対話ができない』
 まず、最初の問題にして、もっとも致命的なポイントがある。それは、『対話ができない』ことである。
 そんなバカな、と思うかも知れない。しかしこのSNSは、「哲学対話SNS」なのにもかかわらず、対話の機能が不十分なのである。もちろん先ほど述べた、フィロソフィーが形成される質問と回答のプロセスを対話と呼べば、哲学対話が出来はする、出来はするのだが、このDialogというサービスは、その先にあるべき当然の機能がまったく欠けているのである。
 それは、返信機能である。なんとこのSNS、他人のフィロソフィーに返信することができないのである。つまり、「人間ってなに?」「考える葦ですね」の二言で、“対話”は問答無用で打ち切られてしまうのである。Twitterでいう、リプライや引用RTのような機能が無いのだ。他のSNSではいざ知らず、「哲学対話」をウリにしているSNSにおいて、これは致命的ではないか?「哲学カフェ」のような”ゆる哲学”的催しであっても、ある一つの問いについて一時間ほど意見を述べ合う、というのが主流なやり方のはずだ。しかしこの仕様では、問いに対して答えを出してはい終わり、というような回答者の自己完結で“対話”が終わってしまう。これではソクラテスも浮かばれないだろう。

問題点②『パンセが使いにくい』
 では、まったくユーザー同士で会話する手段が無いのだろうか。実は、無いわけではない。というのも、Dialogにはフィロソフィー以外に、「パンセ」というまったく異なる別の投稿機能があるからである。
 このパンセ、どういうものかというと、長文の投稿機能である。このパンセ、幸いなことにリファー(返信)をすることができ、そのラリーを続けていけば、議論は成り立つ。ちなみに、長文といっても1000文字の制限があるが、フィロソフィーの文字数は最大108文字(短!)なので、じゅうぶんに感じられる。
 しかしこのパンセ、微妙に問題含みというか、使い勝手が悪い。これが第二の問題点、『パンセが使いにくい』ということである。
 どういうことか。まずこのパンセ、この文章が載っているnoteのように、人のバックナンバーを自由に遡って読める、という性質のものではない。というのも、ある人が過去に書いたパンセを辿る手段がほぼ無いからである。なぜなら、パンセは、常に最新のものが表示される仕組みになっているからだ。たとえば私が新しいパンセを書くと、私が前に書いた古いパンセはほぼ非公開同然の状態になり(リンクは残るので、完全に閲覧不可能になるわけではないが)、他のユーザーが私の古いパンセを読み直したいと思っても、難しいわけである。
 しかしこれは、Instagramでいうストーリーのように、“残らない”ことにむしろ価値がある場合もあるため、このこと単体では好みこそあれ大きな問題だとは言えない。一番大きな問題は、他人のパンセへのリファー(返信)であってもパンセが“更新”されてしまう、ということにある。
 つまり、私が新しいパンセを書くとする。その後、面白いパンセを見つけたので、感想を文章にしたためて、リファーをしてみる。そうすると、先ほど私がせっかく書いた“新しいパンセ”は、他人のパンセへの感想によって、流されてしまうのだ。これでは、感想や質問、批判など、あらゆるリファーにある種のリスクが伴なってしまい、円滑な対話とはいきそうもない。

問題点③『宣伝不足』
 以上に挙げた他にも、『フィロソフィーの検索ができない』『フォロー、フォロワー機能がほぼ意味をなしていない』『アイコンがカエルなのはなんなんだ』など、些細な問題点を挙げればきりが無い。だがしかしぶっちゃければ、これらのような問題はささいなことに過ぎない。十分な対話ができないという点も、ネチネチ議論をするのが好きな自分のような人間だからこそ感じる問題点であって、Dialogがターゲットにしたい層はそういう人ではないのだろうし。 
 だから、それらを抜きにした最大の問題点、というか過疎の原因は、結局のところ『宣伝不足』である。もっとも、このサービスの運営である株式会社プロネーシスは、公式サイトを見る限り従業員たった二人?のとても小さな会社のようなので、この点をあげつらうのは酷かもしれない。広報にかけるような資金もほとんどなかったのだろう。
 唯一まともな広報手段といえば、サービス終了と共に消えてしまった公式Twitterアカウントぐらいのもので、その公式Twitterですら2024年の春からはほとんど稼働していなかった。
 なぜそんなSNSを私が知ることができたのかといえば、当の公式Twitterから、アカウントをフォローされたのがきっかけである。Dialog公式Twitterは、フォロワー数よりフォロー数の方が圧倒的に多かった。おそらく宣伝のために、哲学に興味のありそうなユーザーをかたっぱしからフォローしていたのであろう。涙ぐましい草の根活動である。
 そのアカウントは、はっきり言って怪しかった。フォロー比もそうだし、何よりプロフィールやツイートに並ぶ「😍」や「🌈」といった極彩色の絵文字の数々。正直、ほとんどスパムに見えた。しかし、およそ懐疑の精神とはかけ離れているようなその暑苦しさに、なんにせよ興味を惹かれたのは事実である。……結局、私は(冷やかし半分で)会員登録してしまったのだが、人の少なさ&増えなさを見るに、たぶん私のような行動を取った人は少なかったのだろう。
 その草の根活動は身を結ばず、残念な結果に終わってしまった。しかし、“残念な結果”を本当に残念に思えるくらいには、私は興味本位で入ったこのSNSのことが好きであった。なぜだろうか。それは、先に挙げたような欠点だけでなく、しっかりとした魅力があったからである。

なぜDialogには魅力がある?

 まず、フィロソフィーを考えること。すなわち、五つの質問の中から一つを選んで、適切な回答を与えようとすること。単純だが、これは本当に楽しかった。
 先に言及した通り、フィロソフィーの回答には108文字の字数制限がある。そして、まだ言及していなかったことなのだが、回答には15分の制限時間が課せられている。15分ごとに質問が更新され、別の質問に切り替わるのだ。これらのことは円滑に“哲学”をすることの妨げになるように思える。しかし、私はこれらを問題点とはカウントしない。むしろこれこそが私にとっては評価点である。
 108文字という制限は、厳しい。たとえばすぐ一つ上の段落なんか、これだけで182文字である。108文字という枠の中に自分の言いたいことを収めるには、相応の要約能力とテクニックが試される。そう。私にとっては、この字数制限の厳しさがある(しかも返信が無いから、付けたしもできない)なかで、どのように文章を組み立てるのか?ということを考えるのが、面白かったのである。時間制限もあるなかで、パズルを解くように(むしろ作るように)短い文章を組み立てるのは、ある種文章能力のトレーニングにもなった気がする。そして、上手く組み立てられたときは、それ相応に快感なのである。……まぁ、他ユーザーのフィロソフィーを見てみると、短文でのシンプルな回答がメインを占めていて、私のように108文字ぎっちり使う、というのはかなり少数派のようだったけれど。
 他ユーザーのフィロソフィーといえば、“さとり”の存在も注目すべきポイントだ。他ユーザーのフィロソフィーには、”いいね”だけではなく、閉じた目の形をした“さとり”という別軸の評価ボタンがある。単に“いい”というだけでなく、新しい知見や発見があったときだけ使えるボタン、ということらしい。この“さとり”の存在によって、評価が単一的でなくなっているというところにはオリジナリティを感じるし、回答ごとに「いいねは多いがさとりは少ない回答」「さとりは多いがいいねは少ない回答」など、微妙にバラけるのも観察していて楽しいポイントだった。
 正直なところ、このSNSで出来る哲学的議論はなんちゃってレベルのものだった。けれど、哲学というジャンルに興味を持たせるきっかけ作り、という一点においては、わずかにでも哲学に貢献しうるものだったと思う。そして何しろやっぱり素朴に、哲学することは面白いのだ。
 何より、寂れつつも穏やかな、ネット小集落特有のあの連帯感。同じサービスを使っているというだけで仲間だと思ってしまうようなあの空気。はっきり言って、哲学的に面白いと思える洞察はあまりなかったけれど、それでも私がこのサービスに愛着を持ってしまった理由は、その雰囲気が限りなく居心地の良いものだったからである。

おわりってなに?

 Dialogは、先の通りすでにサービスを終えている。なぜそんな文字通り「終わったコンテンツ」についてnoteを書いたのかといえば、私がそうしないと、このサービスが存在した痕跡がいつかネット上から消えてしまうのではないか、と思ったからである。これの存在を後世に伝えることが、曲りなりにも“Dialoger”であった私の使命のように感じられたのだ。
 ちなみに、先ほど「6月28日をもってサービスを終了した」と述べたが、より正確に言い直せば、実際にサービスが終了したのは6月28日の6時すぎぐらいである。正確な時刻は分からないが、当日の5時にはまだ閲覧できたので、おそらくそのくらいである。私はその日の夜に“最後のパンセ”を書こうと計画していたのだが、予告なく半端な時間に終了してしまったせいで、その計画は果たすことができなかった。このnoteは、その“お別れ”のパンセ替わりでもある。
 もしかしたら、こういうnoteを書いておけば、かつての“Dialoger”たちがここにたどり着いてくれるかもしれない。そういう期待を込めながら、この文章を書いた。本当のところは、それが最大の目的である。
 Dialogユーザーの皆さんへ。私にとってこのSNSは、かつてないほどのびのびと文章が書けた環境でした。ありがとう。


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