世の中の全てが無意味に感じるけど

今俺は心身が壊れているから、何もかもが無意味だと感じてしまう。常にぼーっとしている。判断力や思考力に加え喜怒哀楽も消えている。なのに、たまに怒だけが爆発して世の中の全てが消えて無くなればいいのにとか思ってしまうことさえある。今まで自分なりに苦しみながらもがいてきた結果がこれだから、全ての感情が怒に変換されてしまうのかもしれない。この結果を招いたのは自分の責任だから、世界を恨むのはおかしいけど、自分を責め続けてしまうといよいよ正常に立っていられなくなるから仕方ない。少し冷静になって、今が人生の結果ではなく、あくまで途中経過という考え方をしなければいけない。しかし、今はこの世界をどう楽しめばいいのかが全く分からないし何も楽しくない。どう考えれば、どう頑張れば、今後この世界が楽しくなっていくのかも分からない。楽しんで生きるということが向いていないし、なかなかできる気がしない。楽しいだけが人生じゃないのは重々承知だけど、楽しいことが一つも感じられないというのも人生じゃない気がする。

そんな状態だから、今は会社で毎日のように行われる会議がもうどうでもよくなってしまっている。先週公開されていた新入社員のプロフィールもどうでもいい。自分のことだけならまだいいが、近所にある大手学習塾やおしゃれな古着屋さんも心底どうでもいい。塾で勉強しても意味ないし、オシャレをしても意味ない。こんなにクソみたいな世界で、将来社会的地位を手に入れようと勉強している高校生にも、気分を高めようとファッションを楽しんでいる大学生にも、全て無意味な行為だよと言ってしまいたくなるほど俺は腐っている。そんなことはないことを頭では分かっていても、今の状態の自分は心底そう感じてしまう。こんなに悲しい状態はいない。

でも、今のこんな腐った状態の自分でも、何気なく散歩をしながら夕方の河川敷にそっと吹く風を浴びたり、夜空に綺麗に浮かんでいる月を見上げたりすると、かろうじて生きている意味、生きている喜びを感じられる。芝生の匂いや波の音も。あと散歩してる犬も。それらは、大人同士のややこしい話やしょうもない社交辞令、面倒臭い経済活動や都会の忙しなさなどを一瞬で無意味なものにしてくれるし、そういうのに疲弊して生きてる意味や実感を失い腐りに腐った自分の存在すらも肯定してくれいる気がする。今は腐っていても大丈夫だよと。また元気になったら始めればいいと。

そう感じられるうちはまだ大丈夫な気がする。
一旦会社を辞めることは決まっているから、また復活できるはず。世の中に楽しいことはたくさんある。本来は自分の幅を広げるために勉強したらいいし、ファッションも楽しめばいい。塾も古着屋も、ある人にとっては、生きている実感を得られる場所なはず。本来持つべきそういう感情をまた取り戻せる。経済活動の中で生まれる大人同士のどこまでもしょうもなくて、クソみたいな世界があるからこそ、それがフリになっえ本当に大切な人間関係に大きな価値が生まれるという考え方もある。

とりあえず、今から河川敷に散歩しに行く。

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