吃音による苦しみの正体①
歳をとるごとに、どんどん吃音についての悩みが複雑化しているので、ここで一旦整理をする。もはや自分の今の悩みが吃音なのか他のことなのかよく分からないが、とりあえず吃音だけにフォーカスを当てて整理する。
まず一般的に吃音(きつおん)とは話す時に言葉に詰まったり、最初の一文字目が出なかったりする発達障害のことを指す。(これも色んな考え方があるが、あえて障害と書いている。)
一応ことわっておくと、一般的な吃音の説明としては上記の通りだが、結局吃音にも色んな人がいて、人によって症状や悩みは違うと思う。これはあくまで俺の二十数年の吃音人生で考えたこと、思ったこと、経験したことから、吃音による苦しみの正体を暴いていくものである。
まず俺は吃音を持っていることを幼稚園年長の時に自覚した。当時は親や先生に話す時に「あ、あ、あ、ありがとう」「ご、ご、ご、ごめんなさい」と言葉が連発していた。しかし、当時は特に親や先生から何か言われた記憶もなく、苦しいという感覚は全くなかった。というか、自分の話し方はそういうものだと思っていたし、どれだけ言葉に詰まっても話すことは好きだったし、話を聞いてもらうのは楽しかった記憶がある。まずここから推察できるのは、言葉に詰まる、連発するという症状自体は、吃音の苦しみの正体では無さそうだということだ。明らかに言葉に詰まっていた記憶はあるのに、話すことは楽しかったという記憶しかないからだ。では吃音の苦しみの正体は何なのか?もう少し時を進めて考えてみる必要がある。
自分の吃音が苦しいものであると認識し始めたのは、明らかに小学校に入ってからだ。
国語の授業の音読で言葉に詰まりまくって教室に笑い声が響き渡ったことと、友達との会話中に言葉が連発してそれをよくからかわれていたことが、人生で一番最初に吃音が嫌だと感じた瞬間だ。国語の授業がある前日に家で何回も音読の練習をしても、次の日上手く読めずに教室で笑われる。意地悪な友達にわざわざ呼び出され、言葉に詰まると分かっていながら「あいうえお」って言ってみろと言われたりする。そういうのが小学校低学年の時の嫌な記憶として脳にしつこくへばりついている。そう考えるとやはり、言葉に詰まるという吃音の症状自体が苦しいのではなく、自分一人だけが周りと違う特徴を持っていて、それを周りの人たちに面白がられることが苦しかったのだと思う。例えばクラス全員が吃音を持っていて、みんな音読の時に言葉に詰まるとしたら、言葉に詰まる=苦しいという感情にはならないはずだ。しかしその時点では苦しみの分析なんてできないから、自分が話す→笑われる・からかわれる→恥ずかしい・苦しいという単純な方程式が完成していた。この小学校低学年までの経験だけでいうと、吃音の苦しみの正体は症状ではなく、笑われたり からかわれたりするという周りの反応にあると推察できる。いくら言葉に詰まっても最後まで話を聞いてくれる母親や一部の先生に対しては相変わらず話すことが好きだった。だから小学校低学年の俺は周りの反応によって吃音の苦しみを感じていたのだと思う。しかし、大人になり周りに理解ある人や常識ある人たちが増え、何なら社会までもが多様性を認めていこうという空気になりつつある今、俺の吃音を笑ったり、からかったりする人なんていない。そういう意味では今の環境や人間関係に感謝している。でも、俺は今明確に吃音が苦しいという感覚がある。ということは、俺が抱える吃音による苦しみの正体が「周りの反応」で説明がつかないことは明確だ。もう少し時を進めて考えないといけない。
(続く)
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