吃音に勝ちたい

僕は今、吃音に負けている。今までも吃音とはずっと戦っているが、勝ったり負けたりを繰り返している。特に大学生の時は吃音が倒せるわけがない強い敵だと感じていた。自分の人生を前に進めるため、自分が成長するために、アルバイト、就活、社会人生活での自分なりの努力を経て、その敵を完全に倒したと思っていたが、28歳になった今、また大学生当時と同じくらい吃音という敵が手強くなっている。でも、またいつの日か吃音に勝てるようになりたいし、今までも勝てていたから多分また勝てる。死ぬほどネガティヴな性格だけど、吃音にだけは勝ちたいし勝てると信じてしまう。とりあえず、吃音に勝って人生を楽しくするために、会社を辞めるという選択を取ることにした。

僕がいう吃音に勝つというのは、何も吃らずに話せることであったり、アナウンサーのように流暢に話すことではない。「話したい」「伝えたい」という欲求が症状による不安や恐怖を上回り、話すことが楽しいという感覚になる状態のことを指している。僕は元々話すことが好きだから、話せないなら話さなくていい仕事をしようという考えにはならない。というか、どうしてもなれない。何度も考えたけどなれなかった。やっぱり僕は吃音に負けている状態では人生が全然楽しくない。だからどうしても吃音に勝たなくてはいけないのだ。話すことが楽しい、いわゆる、吃音に勝っている状態を作れれば、症状の有無に関係なく自然と口が動く。そしてその欲求が最大限に達し、いわゆるゾーンに入った時、自分は吃音が消滅することを知っている。

吃音との闘いにおいて、「話したい」「伝えたい」という欲求がキーワードになってくるが、そういう欲求は完全に自分の内側から湧いてくるもので、外部から強制されて出せるものではない。だから、今まで人に相談した時にかけてもらう「落ち着いて話せばいい」「誰も気にしていないから大丈夫」という言葉は、とても有難いけど僕にとってはほとんど効果はなかった。それらの言葉には自分が話す時の心理的な安全性を担保する効果はあるかもしれない(それも無いよりは確実に合ったほうが良い)が、幼少期から不本意に積み重なった吃音の不安や恐怖に勝るほどの「話したい」「伝えたい」という欲求を生み出してくれるほどのパワーは残念ながら持ち合わせていない。だから、いつまで経っても国語の音読は怖かったし、卒業式の呼びかけでセリフを言うのが嫌だったし、大学3年で面接練習が近づくと前日の夜は眠れなかった。それは、クラスメイトや先生が優しくても、面接官に理解があっても、あまり関係なかった。どれだけ命の安全が保証されていることを分かっていても、観覧車やジェットコースターに乗るのが怖い人がいるのと同じで、吃音に負けている時の僕はどれだけ安全な状況下でも話すこと自体に猛烈な恐怖と不安を感じてしまう。

一方で「話したい」「伝えたい」という欲求が高ければ、緊張する場面や、安全性が確保されていない状況でも、しっかりと自分を発揮することができる。面白い出来事を友達に伝えて笑わせたい時、飲食店のアルバイトで接客に挑戦してみたい時、どうしても好きな人とデートをしたい時、絶対に就活に成功したい時、新人発表会で司会をしたい時、今まで自分の内側から湧き出る強くて熱い意思は、吃音による不安や恐怖を何とか打ち負かしてくれた。「落ち着いて話せばいい」「誰も気にしていない」という表面上の解決策では決して届かない場所まで自分を連れていってくれるのは、「話したい」「伝えたい」という自分の確固たる意思しかない。だから、僕は自分の気持ちに正直になる必要がある。それは今まで散々意識してきた社会通念や世間体から外れたものかもしれない。でも、僕が生きている社会は吃音がないことを前提に動いている。吃音をはじめとするマイノリティな特徴に理解はあるけど、当然それを前提とする社会ではない。自分を殺して吃音に負けながら社会を生きていくことは本当に難しいし。俺にはそれができないことをこの五年間で痛感した。
だから、一度会社を辞めて、今後は「話したい」「伝えたい」という欲求を保ちながら社会で生きる道を真剣に考えていこうと思う。


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