吃音とのこれから

10代は吃音をとにかく回避した。
回避することで、その場の安心と将来への不安を同時に得ていた。しかし思春期の10代は将来の不安と引き換えにでも、その場の安心が何より大事だった。

20代は吃音ととにかく戦った。
絶対にできないと思っていた接客のアルバイトに挑戦した結果吃音に勝って理想の自分になることもできたけど、就職した後にまた吃音にボコボコにされて完治はしていなかったことに落胆もした。そして吃音に勝ったことがあることすら忘れて戦うのをやめる選択をしても、結局自分の心は常に吃音と戦っていた。周りの人が勧めるような吃音を無視する・気にしないという生き方は俺にはできないことを知った。

それを経て、これからは吃音を利用する生き方がしたい。
吃音との付き合い方でまだ唯一試していない方法、それは利用するということ。
吃音の自分だからできることをしたい。
吃音と向き合ったからこそできることをしたい。
今まで吃音を良かったと思えたことは一度もない。
それでも、10代の回避の日々、20代の戦いの日々を、意味あるものに昇華したい。そしていつの日か吃音で良かったなと思えるようになりたい。

20歳くらいの時に吃音を利用する生き方を、同じ吃音者の先輩に教えてもらったことがあったけど、若い自分にはその生き方はまだ早い気がした。当時は自分の気持ちの真意はあまり分からなかったけど、今はなんとなく分かる。吃音を回避し続けてきただけの自分にはまだ吃音を利用する人生を歩む権利がないように感じていたんだと思う。吃音を利用する生き方というのは自分の吃音人生を他者に還元することであり、吃音を回避してきただけの自分が他者に価値あるものを提供できないと感じていたんだと思う。でも、今は吃音を利用する生き方を肯定できる。なぜなら8年間真剣に向き合って戦ったから。本当に一人でよく向き合った。結局これからも向き合うことには変わりないけど、回避したり戦ったりという向き合い方ではなく、利用するという方向で向き合っていくのだ。

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