誕生日

あーだめだこんな人生やめてしまいたい。

私は誰からも誕生日を祝われる資格なんてない。
大好きな友達の誕生日を今年も祝うことができなかったことに今日気づいた。自分の誕生日の日にだ。しかもそれを昨年もしている。ついでに今年は合宿免許で同じ屋根の下にいたにも関わらずだ。
どこでケーキを取り寄せたか、どこで祝えたか、どんなサプライズができたか。それだけが頭を巡って仕方ない。
昨年もそうやって反省したのに、その時は次への対策を考えて誕生日アプリも入れていたのになぜか通知されなかった。確かに忙しかったが、なぜだ、なぜ一ミリも頭をよぎらなかったのか。

自分の本当に嫌なところは、本当に愛している友達に対してこのようなことをやってしまう点だ。彼女は自分とは全く正反対の人間で、色とかの好みも全く合わない。しかし彼女は愛に溢れていて、自分にはないものを平然と持ち合わせ、惜しげもなく人に振る舞える。そんな自分にはない器の大きな人間だ。最初に会った時から、この人は自分にはないものを持っているということに気づいていた。 しかもその足りないところを平然と、奢る事なく持っている様子に少し嫉妬に近い感情を抱いていたこともあったが、今ではその違いを心から受け入れて尊敬できている。そんな彼女に感謝と愛を心から伝えられる大切な日だったのに、私はなんてことをしてしまったのか。私は彼女を、大学の仲間という繋がり以上のものにしていきたいし、心から尊敬していると言うのに。もう彼女と喋る資格なんてない。ないんだよ……………。
彼女はどう思っただろうか?あいつ忘れてるな、あいつらしいな、と思われるまで祝ってきてはいない。
誕生日を祝い合う関係性じゃないよということを全面に突きつけられた、お前に興味ないと言っているようなものだろう。
いまいち彼女との間にプライベートをオープンにできない壁を感じるのはそのせいであろうか。全て私のせいだ。私はこんなに彼女との絆を深めたいとしているのに。

そもそも私は他人への興味が薄い。名前と顔を覚えることが悉く苦手だし、LINEを返すことが本当に苦手だ。なぜラインを返せないかは自分でもわからない。しかし返さない自分もまたそれはそれで容認してしまっているのもまた自分である。

多分人との繋がりの中で何かを得ること期待していない、その楽しみを人生の中に取り入れられていないのだろう。文面にしてみるとなんて寂しい人間だろう。

コロナ期間になってなにかが変わってしまった。人とコミュニケーションを取ることがそもそも体力の要ることだと思っていた自分はコロナを理由に色々な付き合いから身を引く理由づけを手に入れたのだ。確かに実家住みだと何につけても外へ出るのが億劫である。しかし、それとLINEを返さないこと、誘われてる食事に行かないことは話が違う。お前はなんて不誠実な人間なんだ。

今読んでる本や映画よりも、実人生で巻き起こる人と人との事象の方が遥かに尊く、かけがえのないものなはずだ。それを自分は出不精であることでそのあるはずの事象を起こせていない。反出生主義のようだがこれはあるべきだったと考えていいのではないか。

とにかく、今回の、愛する友人の誕生日を祝えなかったことは氷山の一角に過ぎない。自分の他人への関心の薄さ、協調性の薄さ、それを気づきつつも容認している自分にそろそろ腹が立って仕方ない。本当に愛するべき人間、興味を持ってくれた人間に対しては誠実にいるべきだ。コミュニティを広げることは確かに体力が要るし、自分には合わない。
それならば、自分が愛したいと思う人間と、自分に興味を持ってくれた人間に対しては誠実に生きようではないか。当然22歳の目標は決まってしまった。


でも当分は誕生日なんて
祝われる資格はどこにもない……………………。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?