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ハワイタイムマシーンZ/太平洋のど真ん中で 06.ハワイアンは赤道より南からやってきた

篠遠教授はリアルなインディージョーンズでした

わたくし、もともと本は大好きでしたが、2000年にハワイへ上陸してから、あんまり読まなくなっていました。本を読むより、出歩く方が刺激的で得るものがいっぱいあったからです。ですが、篠遠教授の本は久しぶりにビンビン来ました。

なんと、太平洋に住む人々がどこからやってきたのかについて書かれていました。簡単に説明させていただきます。上の写真は、現在、ビショップミュージアムの「パシフィック・ホール」に展示してある太平洋を描いた地図です。黄色い矢印のようなものが描かれていますが、人々はこんな感じでやってきた、と、篠遠教授は調べ上げられていました。

篠遠教授がハワイへやって来られたのは1950年代の話。カリフォルニア大学へ留学するため、船に乗ってサンフランシスコへ向かっていたそうです。ひょんなことから、ハワイ島サウスポイントで行われていた発掘調査を手伝うことになります。

ハワイアンは西洋人がやってくるまで文字を持っていませんでした。なので、文章として残っている記録を持っていません。日本人も縄文時代なんかは文字を持っていませんでしたが、家や道具など、いろんなものが残っているので、昔のことを調べることができます。が、ハワイは常夏の島で家や道具はシンプルです。かなり省略して書いてますが、いろんな状況があり、篠遠教授が現れるまで、発掘しても何も見つけられませんでした。

日本人がポリネシアの歴史を復活させていた

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篠遠教授は、発掘現場の調査方法を改善することから始められます。そして、何も見つからなかった発掘現場から、釣り針をたくさん見つけられます。釣り針は動物の骨から造られていたりするので、大昔の骨が見つかるようにしていっぱい出てきたわけです。

ハワイアンは肉食ではありません。サカナを食べていました。彼らの生活に釣り針は欠かせない存在でした。その釣り針が見つかり、昔のハワイアンについていろんなことが分かるようになりました。

篠遠教授は、カリフォルニア大学へ行くことをやめ、ハワイに残られます。そして、ポリネシアの島々を周って釣り針を発掘しまくり、それぞれが似ていることから、島々の関連性を探っていかれます。遠く離れていて繋がりがなさそうな島でも、似たような釣り針が見つかるわけです。これは関係あるぞ!と。

※ポリネシアとは、太平洋中央の三角形(ハワイ、イースター、ニュージーランドを結ぶ三角形)のエリアを指す言葉として使われています。

一番すげぇと思ったのは、発掘調査の話です。ポリネシアの島々で実際に発掘調査を手伝うのは、現地の人々です。ポリネシアの人々はそんなに働き者ではありません。島々を周り、そんなポリネシアの人々と一緒に発掘調査を成し遂げていかれたのです。

篠遠教授は発掘調査をしただけではありません。すっかり西洋化されていたポリネシアの人々に、遺跡を復元しようと働きかけ、海洋民族の文化を思い出させました。

あ、上の釣り針図は、篠遠教授が書かれたレポートの一部からお借りしました。レポートにはリンク飛ばしておきます▼
「ビショップミュージアムに残る篠遠教授が書かれたレポート」

題名■A Revised System for the Classification and Coding of Hawaiian Fishhooks
著者■篠遠喜彦
引用文献リスト提供■ビショップミュージアム

篠遠教授の活躍を分かりやすく説明されてるWEBページがありました。それにもリンク飛ばしておきます▼
「ポリネシアに過去を贈り届けた考古学者、篠遠喜彦博士を讃える記念式典が、タヒチ・フアヒネ島で開催」

もうひとつ、わたくしをハワイの歴史好きにさせた本はこれです▼
題名■楽園考古学
版元■平凡社
著者■篠遠喜彦・荒俣宏 

ポリネシア・カルチャー・センターが楽しくなった

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オアフ島の北ライエという町に、ポリネシア・カルチャー・センターというテーマパークがあります。太平洋に浮かぶポリネシアの島々の違いを知ることができる場所で、敷地内には以下の6つの「村」が造られています。

・トンガ
・タヒチ
・サモア
・アオデアロア
・フィジー
・ハワイ

それらのエリアは、地図で見れば確かにひとくくりにできますが、その島々は日本列島を横断するほど離れています。なので、2005年時点では、単に「同じエリアにある島々」くらいに思ってました。

わたくし、めっちゃ単純なので、篠遠教授の本を読んでから、ここへ行くのも楽しくなってしまいました。太平洋に浮かぶ遠く離れた島々には、それぞれ違う踊りがあります。格好も話してる言葉も微妙に違います。が、文字を持たず、何かあると踊って感情を表すというところは共通しています。

現代に生きる人間からしたら、海は命に関わる危険なエリアです。が、太古のハワイアン、ポリネシアの人々にとって、海は大地のようなものでした。散歩をするように船に乗り込み、遠くの島々まで出かけていました。

今、ポリネシア・カルチャー・センターでは「HA:ブレス・オブ・ライフ」というイブニングショーが行われています。見るまでは、ワイキキで見るフラショーみたいなものかな、と思っていたのですが、全く違いました。主人公が、ポリネシアの島々を旅しながら成長していく話です。出演者は50人以上いて、ポリネシアの島々の文化が上手に表現されています。

※英語なので、アホなわたくしは完全に理解しているわけではありません。お客さまと一緒に行った時にこんな質問をいただいたりします。

「でも、ポリネシアの島々って、めっちゃ離れてるじゃないですか。こんなに簡単に行き来できないですよね?」

わたくしは鼻息荒く、得意そうに答えるのでした。

「ポリネシアの人々にとって、海は大地みたいなもんやったみたいですよ。なので、隣町へ出かけるみたいな感じで海を移動しまくってたんですって!」

1500年以上前の、カヌーを繋いでいた穴が残っています

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南からやってきた人々が、カヌーを停泊させるために作った穴が、ハワイ島最南端に残っている。

それを知ったのは、ハワイ島を紹介する本を出した後でした。そんな1500年も前に作られた穴が残ってるなんてことがあるのか?

が、篠遠教授の本を読んでから、わたくしはすっかりハワイの歴史に激しく興味を持つようになっていました。が、サウスポイントは、カイルアコナからクルマで約2時間かかります。しょっちゅう行ける場所ではありません。初めて確認したのがいつやったのか、はっきり覚えてないのですが、それを知ってから、サウスポイントへ行くたびに見にいくようになりました。

若者たちが崖っぷちから飛び込んでいるあたりからさらに南へ歩いていくと、豊漁と安全を祈願したと言われているカラレア・ヘイアウがあります。それを超えて海岸に向かって降りていくと、岩場が現れます。砂浜なんかありません。何100年も波に打たれているからか、岩場はゴツゴツしているようで、丸みを帯びています。

穴は普通に残っていました。保管するため特別に何かされてるわけではありません。最初は2、3個しか見つけられませんが、穴は間隔を置いていくつも並んで並んでいました。

1500年も昔の風景を見てるような気がして、めっちゃ感動してしまいました。ちょっと歴史を知るだけで、旅は何倍も楽しく感動的になるなあ、と激しく思ったのでありました。

※穴はカヌー・ムーリング・ホールズと名付けられていました。

。。。。つづく

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