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娘のための世界史4 宗教史1

娘のための世界史4 宗教史1

 前回、「紙の伝播」を書いていて閃きました。そうだ、次は「神」を書こう。

 口絵は、ラテン語で「Deus creavit omnia.Et creavit Deus homines.」と綴られた偽文書です。なぜ偽かというと、私がつくったからです。苦笑。意味は「万物は神が創ったが、神は人間が創った」のつもりですが、はたして正しいのでしょうか。ネットを使った自動翻訳です。

 もちろん、のちにキリスト教の庇護者となるローマ人がラテン語を使ってこんな内容の箴言を書くわけがないですよね。


【血なまぐさい旧約聖書】

 旧約聖書では、アブラハムの一族は、カルデア(メソポタミア)から約束の地「乳と蜜の流れる」カナン(パレスチナ)へと旅立ち、カナンの住民を皆殺しにします。

 その子孫モーゼもエクソダス(出エジプト)の過程で、次々とカナンの諸部族に戦争を仕掛けて滅ぼしていきます。モーゼの後継者ヨシュアも有名なエリコをはじめカナンびとを皆殺しにします。のちにダビデがユダヤ王国を築くまでの間の指導者たちも、異民族を殺して殺して殺しまくります。


【バアル神】

 そのころ、カナンを含めた中東全域では多神教が信仰されていました。自然信仰が発達したものと考えていいでしょう。代表的な神が天候と豊穣の神バアルでした。自然神ですから、偶像崇拝でした。

 ところで、人は獣を殺して食べますが、同じ人を殺すには抵抗があるものです。とくに仲間うちでは、利害対立や怨恨からの衝動的な殺人や場合によっては計画殺人もあるでしょうが、組織的な大量虐殺などできるものではありません。
 しかし、敵が「われわれ」でなければ、どうでしょう。「やつら」はもう獣同然です。

 アブラハムが「乳と蜜のカナンを盗る」と決心したとき、邪魔者である先住民を「やつら」とみなすためには、「われわれ」の守護神を創造し、その神と契約し、その神にまつろわぬ人々と自分たちは違うと考えることが必要だったのです。

 こうして、多神教信者を敵とする一神教が形作られていきます。神の名をYHWHといいます。偶像崇拝は禁止され、神の名を口にすることもタブーとされました。そして、神に選ばれた民、つまり「われわれ」以外はもう人ではなく獣同然なので、「やつら」を殺して「やつら」の神々を滅ぼすことは、むしろ正義となったのです。

 旧約聖書では、アブラハムの時代からYHWHに導かれたことになっていますが、むしろ後世になって、先祖であるアブラハム一行の蛮行を正当化するためにYHWHを脳内で創造したのかもしれません。ともあれ、エクソダス途上のモーゼがシナイ山で神から「十戒」を授かったことで、民族宗教としてのユダヤ教が成立したとされます。前13世紀のことです。

 旧約聖書の冒頭に収められている、民族の神話や先祖の行状記である「創世記」の成立は前6世紀頃とされます。その他の「記」の成立はよくわかりませんが、エクソダスは、それが行われたのがモーゼの時代ですから前13世紀頃の出来事で「出エジプト記」に記載。ダビデのユダヤ王国ができたのは前10世紀頃のことで「サムエル記」に記載、新バビロニアのネブカドネザル王によるバビロン捕囚が前6世紀で「列王記」に載っていますから、もちろん、それぞれの「記」の成立はイベントより後のことになります。旧約聖書が記述する歴史イベントはだいたい、このあたりの時代までです。ユダヤ民族の古代の大イベントであるディアスポラは1-2世紀のユダヤ戦争の結果ですから、旧約聖書には載っていません。


【キリスト教の神、イスラムのアラーも同じ神】

 神についての普遍的な記述をめざしたつもりが、ここまでユダヤ教に偏ってしまいました。というのも、一神教というものを理解してほしいがためです。現在、その一神教の首位に座るキリスト教を考えましょう。

 さて、イエスは何をした人なんでしょうか。キリスト教の創始者? いいえ。彼は、堕落したユダヤ教を改革しようと、民衆を教化・宣教した男です。その言行に基づいて弟子たちが伝道活動をしてキリスト教団の教義を整えていきました。ですから、イエスはキリスト教の創始者ではないのです。

 ただし、イエスはメシア(救世主、ギリシャ語ではキリスト)であり、つまり神の預言者であること。さらに、宗派によって解釈に違いがありますが、神の子であったり、神と一体であったり、神ではないなどと考えました。このときの「神」とはYHWHなのです。

 7世紀にムハンマドが創始したイスラム教は、彼の母語アラビア語を公用語とします。そのアラビア語の「アラー」とは神の意味で、すなわちYHWHのことです。また、イスラム教の聖典クルアーン(コーラン)には旧約聖書の内容が取り込まれ、ムハンマドをアブラハムやモーゼ、イエスらに続く、最後の預言者としています。

 つまり、先行のユダヤ教やキリスト教にとってイスラム教は異教ですが、後発のイスラム教にとっては、この2教は「啓典の民」といって改宗の対象とはされていないのです。ムハンマドによる立教は、多神教のメッカであったマッカ(メッカ)のカアバ神殿にある偶像群を何百も破壊して一神のみとすることから始まりましたから、もともと一神教徒である2教は伝道・布教の対象外であったようです。


【ローマ教会によるキリスト教の公認と国教化】

 このように一神教は、侵略と征服にたいへん都合の良い教えなのです。

 キリスト教はローマ帝国で当初の迫害を乗り越えて徐々に広がっていきました。「神の前での平等」の教えが下層の人々に魅力的だったからです。なお、ローマは市民皆兵でしたが、出征前には‎結婚が禁じられていました。そこでキリスト教団は秘密裏(非合法)に、若い兵士たちの結婚式をとりもってやったことが布教の推進力となったという説もあります。その司祭の名がウァレンティヌス(バレンタイン)で、恋人たちの聖人であるのはご存じの通り。

 313年、ついにローマ皇帝コンスタンティヌス1世はキリスト教の魅力を認め、これを公認します。ミラノ勅令と言います。そして、380年には、テオドシウス帝が国教と定め、翌年には「父と子と精霊」が三位一体であるとするアタナシウス派のみを正統とし、やがて、他の宗教や、キリスト教であっても他の宗派を禁じます。このアタナシウス派がのちのローマ・カトリックです。

 キリスト教の他の宗派は、イエスは神ではなくあくまで人であるとするアリウス派や、神性を認めながらも人性も強く主張するネストリウス派などさまざまな教義の分裂がありました。しかしローマでは、アタナシウス派以外は異端として弾圧・排除されていきます。

 一方、帝国内のギリシャ語地域である東方の大都市アンティオキア(現シリア)やアレキサンドリア(現エジプト)、それに聖地エルサレムはやがてイスラム教の勢力下に入ってしまいます。そのためイスラム教の厳格な偶像否定などの影響を受けるうち、西方での800年のカール大帝即位(神聖ローマ帝国の成立)により、東西は決定的に分裂。ローマとの交流がなくなった東方教会は、首都コンスタンチノープルを中心にカトリックとは独自の発展を遂げることになります。これを「正教会」といい、ギリシャ正教会だけでなく、スラブ人地域へ布教を拡大し、今ではロシア正教会、ウクライナ正教会などとして緩やかに連帯しながら、それぞれが独立しています。

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 この後については、「娘のための世界史1 ヨーロッパ史1」を読んでください。

【イスラムの拡大】

 一方、ムハンマドの意図は、多神教を一掃してアラビア人を統合することでしたから、イスラムの布教は「剣かコーランか」と言われるように、武力をもってアラビア半島を快進撃で席巻しました。これで目的を達成したはずなんですが、そういうわけにはいきませんでした。教祖の死後、ムハンマドの後継を「カリフ」と呼んでイスラム共同体の指導者としたのですが、征服をやめると略奪品もないから兵士に贖う報奨を出せない。それで、東ローマ領、ササン朝ペルシャ領を侵して征服を続けることになったのです。

 しかし、教団はやはりキリスト教同様、宗派が分かれていきます。教義の解釈でもめたキリスト教と違い、後継争いの側面が強く感じられます。

 ムハンマドの娘婿で4代カリフのアリーは、その権力闘争の中で暗殺されてしまいました。次の第5代カリフを、ウマイヤ朝としては初代カリフとなる名家出身のムアーウィヤ(ウマイヤ)1世が襲います。しかし、アリーの子孫だけが指導者にふさわしいと考える勢力が、カリフに対抗する指導者の称号「イマーム」をもって分派活動を始めました。これを「シーア派」(党派)と言います。カリフ側を「スンニ派」(多数派)と呼びます。

 シーア派はスンニ派から弾圧を受けますが、10世紀、ウマイヤ朝の後のアッバース朝のイラク・イラン地域でブワイフ朝を打ち立て、現代でも、世界全体では少数派ながら、これらの地域では多数派を形成しています。

 この後については、「娘のための世界史2 インターコンチネント史1」や、すぐに書かれると思われる「宗教史2」を読んでください。

【ヒンズー教徒と仏教】


 


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