できない

何をやっても駄目な気がする。
生存に向いていない。努力は人生をよりよく生きるためにするものだとすれば、何かを成し遂げたいとか何者かになりたいという目標、希望がない人間は努力ができない。向上心がなければ生きていけないか?
不安が強い。自分を信じられない。周りを失望させてばかりいる。

希望の躁鬱がある。頑張るに値するだけの理由はあるが、それは持続しない。しかし頑張らなければならない。自分は本当に欲しいもののためにも努力できないだろう。面倒をするくらいなら手に入れられなくて構わないという思考。頑張らなくても生きることだけならできる。でもそれでは確実に人間として必要なものが欠ける。立派でなくてもいいから、ちょっとでも胸を張れる人間になるには、それは避けられない。

なぜ生まれ、なぜ生きるのか? 生きるとは何なのか?
未だに全くわからない。

努力の習慣をつけなければならない。頑張りたくないから要らないでは、駄目なのだ。どうでもいいことに力を注ぐ。大きな目標を取るに足らない「ここまで」の連続にする。
自信がない。ある時もあるのに、気付けばなくしている。
少しでも自分を褒められる生き方をすれば、それ自体が生きる原動力になる。人生をやめたければいつでも死ねばいいが、それができないから未だに生きている。それはできない。死なないでいることが死にたい理由になってしまわないように、できることをする。
たまには休めばいい。少しの辛抱なのかもしれない。わからない。

結局、頑張ることさえできれば、何でもどうとでもなる。しかし、それは「いつかやればいいこと」ではない。その時期があるとすればとうに過ぎたし、そもそもないと思う。今やることに意味がある。程々に力を抜きながら、その時できることをやる。限界はいつか来るかもしれない。
泣きたい時は泣けばいい。頑張っている限り、決して孤独ではない。
泣いて、何もできなくなっても死ぬことはない。やり直せばいい。

生まれて20年を目前にして、何をしてきただろうか?自分の力で頑張った経験はあったか。生まれたときから生きることに向いてなかったかもしれない。なぜ今まで生きてきたのか?死ねないから生きてるだけになって5年にはなる。11か12のときにはすでにそうだった記憶もある。死ぬことはできない。いつでも人生はやめれるから、もう少し頑張ればいいか? そう考えられたときもあった。

今も時間を無駄にしている。とにかく頑張る。それしかない。適当に頑張ればいいはずだ。他人に褒められることは、自分で自分を褒める理由にはならなかった。その経験があるのだから、今度は自分を驚かせられるくらいの努力をする。何が必要か。頑張りさえすれば結果が出なくてもいいではないか。それだけのこと。尊敬に値するには結果は必要ない。そういうことにしてもいいだろう。

努力する理由は無限にある。頑張りたくない理由も無限に湧いてきて邪魔をする。勝手に近づいて襲ってくるものをぶっとばし、すぐに去ってしまおうとするものを雁字搦めに縛るように、いつでも理由に迷わないように、見失わないように、見えるところにそれを置く。それも少しの頑張りのはず。少しでいい。その少しが次に繋がってくれる。

やりたいことをやるためには、やりたくないことをやらなければならない、
という程度の当たり前が生きづらさの最大の理由になる。今この時間を意味のある方向に向ければいいだけ。自分にも大したことができるんじゃないか? 人と比べて落ち込んでも何もいいことはない。あいつがあれだけできるなら、自分にだってできて当たり前だ。やろうとしてないだけ。だからって、簡単なことは一つもない。

これだけ頑張ってきたという実感は、自分を一番支えてくれる。
休んでもいいから、できるときにできるだけのことをしたい。

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