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高野山・奥之院の供養塔

 高野山へは2回行ったことがあります。プライベートでなく、それぞれ別の仕事のためだったのですが、もちろん、壇上伽藍や金剛峯寺、奥之院・御廟ごびょうなどにはご挨拶を兼ねての気持ちで、お参りをさせていただきました。
 昔から「一度参詣高野山無始罪障道中滅」(一度高野山に参詣すれば成仏の障りとなる罪業はすべてその道中で消滅する)というのだそうです。後宇多法皇は正和2年(1313)、生まれて初めて草鞋を履いて高野山にのぼったのだとか。私は往復にケーブルカーやバスを利用しましたが、それでもご利益はありそうです。高野山は、何ともいえず気持ちのいいところです。そういう気持ちだけでも、大きなご利益の源泉となるような気がいたします。

 高野山では、いろいろな方のお世話になり、心打たれる出会いや発見がたくさんありましたが、今はお盆なので「供養」の関連で振り返りますと、奥之院参道にたくさんあった「一石五輪塔いっせきごりんとう」と呼ばれる小さな古い供養塔がとりわけ深い印象を残しています。

 皆さん尊敬と親しみを込めて「お大師さま」や「お大師さん」と呼ばれますが、高野山を開いた弘法大師空海は、今から約1200年前の承和2年(835)3月21日午前4時頃(寅の刻)、端坐して大日如来の印を結び、かねて自ら予言した日時をもってじょうに入ったと伝わります。入定の地は、高野山奥之院の御廟。その奥の石室にあって、今も肉身を留めて衆生救済を続けているということです。
 御廟へは、奥之院の入口にある一之橋から約2kmの参道が伸びているのですが、その両側というのが独特の景観で、約20万基ともいわれるさまざまな供養塔が林立しています。

 調査によれば、供養塔はその基台に遺骨や遺髪、歯や爪が納められています。最古のものは、山内最古の石造物でもある曽我兄弟の供養塔。鎌倉時代初期の建立だそうです。さらに驚いたことに、平敦盛の供養塔があれば、彼を討った熊谷直実のものもあり、天正9年(1581)に「高野攻め」を実行した織田信長のものもあれば、彼を討った明智光秀の供養塔もあります。
 極楽往生は「怨親平等おんしんびょうどう」。敵味方を問わず、差別もないとのこと。さらにここでは、古来、宗教・宗旨といったことも問われなかったようです。
 奥之院には、前田利家の娘で秀吉の養女となったキリシタンの豪姫、浄土宗の法然上人や浄土真宗の親鸞聖人の供養塔もあります。上杉謙信・景勝とそのライバル、武田信玄・勝頼の供養塔も参道を挟んで割と近くにあるのですが、謙信も信玄も禅宗の人というイメージがあると思います。謙信は曹洞宗林泉寺・天室光育のもとで育ち、信玄は臨済宗長禅寺で学んだ人でした。
 もっとも謙信は後年高野山での出家を志したことがあったようですが、とにかく高野山の奥之院には、大名、武将、学者、歌人、役者、僧侶から一般の人々まで、さまざまな人が供養塔を建立しています。高野山は明治5年(1872)まで女人禁制だったそうですが、女性の供養塔もあり、天授元年/永和元年(1375)に建立された禅尼上智のものがその最古であるそうです。
 そのほか、近代の戦争で亡くなった人々、敵軍の戦没者、大火被災者の慰霊塔なども含め、生前の関係、身分、職業、宗教、国籍などにかかわらず、さまざまな時代のさまざまな人々のための塔・碑が建っています。

 しかも、供養塔の数を先ほどは「約20万基」と書きましたが、最初に書いた「一石五輪塔」というものを加えると、その何倍もの数になるようです。
 一石五輪塔は、一つの石から彫り出された高さ50cmほどの小さな供養塔です。参道の脇に入って地面を見ると、いくつもあります。
 高野山とその石造物について長年研究されているある専門家の先生にうかがったのですが、奥之院は少し地面を掘るだけでこの一石五輪塔が多数出土するそうです。そのような埋もれているものも含めると、奥之院にある供養塔の数は100万基を下らないというのがその先生の推計でした。

一石五輪塔

 一石五輪塔は、多くが室町時代のものだそうです。ほとんどは誰のものかわかりませんが判明したものもあり、それらを手掛かりに調べたところ、当時の場合、塔のサイズとその人の権力や経済力はあまり関係がなかったようです。また、数の多さからして、特権階級だけでなく民衆もおおぜいこの一石五輪塔を建てたものと思われ、経済の発展により民衆が力を持ち始めた室町時代らしい状況がうかがえるということでした。
 
 また、先述の先生によると、曽我兄弟以前、つまり鎌倉時代初期以前の供養塔は長い四角柱の木製で、上端が五輪塔になった「五輪卒塔婆」であり、さらにそれ以前の時代の卒塔婆は、丸太の柱だったようです。
 石とは違い、木は時間が経つと朽ちてしまいますが、それらも合わせて考えると、高野山に供養塔を建てた人々の数は、何百万人にものぼるのかもしれません。

 では、なぜこれほど多くの人々が、この奥之院に供養塔を建てているのか。それは56億7000万年後、ここに弥勒が仏となって現れる(下生)のを空海とともに待つためだということです。
 いわゆる大師信仰が生じたのが10世紀。弘法大師自身が信仰の対象となって、その中核が空海の入定留身にゅうじょうるしん信仰であったわけですが、なぜかいつしか奥之院は、そこに供養塔を建て、空海とともに遠い未来の弥勒下生を待つ場所になった。
 弥勒は、釈尊の次に仏となることが約束された「将来仏」です。今は兜率天とそつてんというところで修行中ですが、仏滅の56億7,000万年後、人間が住むこの世界に現れて弥勒仏になるといわれます。下生したその際は「三会さんえ/さんね」といって説法が3度行われ、第一会で96億人、第二会で94億人、第三会で92億人が救われて涅槃を得るとのこと。その説法の1回が、高野山の奥之院で行われると信じられています。

 空海の遺言書とされる『御遺告ごゆいごう』にこう書かれています。

吾れ閉眼へいげんの後には必ずまさに兜率他天に往生して弥勒慈尊みろくじそんの御前にすべし。五十六憶余年の後には必ず慈尊と御供おんとも下生げしょうし、祇候しこうして吾が先跡と問ふべし。

(遠藤祐純訳注『御遺告』(二十五箇条)、『弘法大師空海全集 第8巻』より

わがなき後には、必ずまさに兜率天に往生して、弥勒菩薩のもとにつかえるであろう。(弥勒菩薩が天上からこの世にくだる、仏滅後)五十六億七千万年には、必ず弥勒菩薩とともに(天上界から)人間界にくだり、謹んでお側に仕えて、かつてわたくしが歩んだ跡を訪ねるであろう。

(遠藤祐純訳注『御遺告』(二十五箇条)、『弘法大師空海全集 第8巻』より

 また、東西約7km、南北約3kmという広大な一山境内地である高野山は、標高約800mの盆地に位置し、そこを囲む1000m級の峰々は浄土を象徴する蓮華の花弁に見立てられてきました。この世の浄土、高野浄土、弥勒浄土です。「こつのぼせ」といって、奥之院にお骨を上げる分骨の習俗もまだ見られるそうです。先日の投稿で触れた庄内の「モリ」などと同様、高野山の信仰・習俗も仏教弘通以前からある山中他界観がその基盤にあり、空海によって開かれる以前から、当地はそのような聖地だったものと考えられています。
 つまり、高野山奥之院の信仰は、空海の入定留身、弥勒下生、この世の浄土、そして古来の山中他界といった多様な信仰が結び付いて成立していると考えられるわけですが、空海にとっては、すべて織り込み済みのことであったのかもしれません。

 というのも例えば、高野山開創の際、空海が真っ先に着手したのは、本堂などの寺院伽藍の建立ではなく、地元の人々が信仰してきた稲作や水の女神・丹生明神とその息子である狩場明神(高野明神)を祀る「御社」だったそうです。それを山内でも重要な壇上伽藍に建立しています。ですので、高野山の仏教寺院は、もともとは神宮寺(神社に付属して建立された寺院)であったということになりそうですが、それはさておき空海は、高野山が地元の人々にとって何であるのかをよく理解し、人々の願いと在来の信仰を取り込みながらこの地を仏教化していったということなのでしょう。

 空海は19歳で大学寮(国立の官僚養成機関)を去って、山岳修行者になったといわれます。ですから、山にまつわる民間信仰に対する深い理解あったとして何の不思議もありませし、だからこそ地元の人々とよい関係を築き、あのようなう山中に立派な伽藍を実現できたのかもしれません。香川県の満濃池の修堤工事には何万人もの人々が集り、その人々に対し、空海は家族同然に接したといわれます。高野山においても、きっとそのようであったのでしょう。

 そう考えると、後世各地で活躍した鎌倉仏教の僧侶たちの姿に対しても想像がふくらんできます。教線を広げるなかで、さまざまな土地へ赴き、人々と交流を深め、在来の信仰を引き受けながら、信仰の仏教化を進めていった。庄内のモリ供養も、そうしていつしか組織化されていった行事なのかもしれません。

 空海が入定している御廟に向かって、多くの供養塔の間を歩いていくと、空海のおおらかな人柄や彼を慕って支えた地元の人々の願い、そして、供養塔を建て、空海と一緒に救済を待ち続ける人々の安心が伝わってくる気がします。
 空海は、この宇宙のすべてが、大日如来の化身・分身であると教えたとお聞きしました。したがって、誰の心の中にも大日如来がいるのであり、路傍の花一輪、供養塔の石も、その石に生す苔の緑も、老杉の木漏れ日も、御廟で手を合わせる人の姿も、仏であり宇宙であると。
 何かに書かれていたのですが、高野山は、すべてが照らし合い、輝き合い、自分の中の仏に出会える場所なのだとうかがいます。私の宗旨は禅の方面ですが、最初に書いた「何ともいえず気持ちのいいところ」というのは、そういうところに由来するすがすがしい感覚であったような気がします。
 子どもがそのうち興味を示すことがあれば、いつかプライベートで家族を連れてお参りにいきたいと思っています。

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