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玄奘三蔵の印象 その2

 前の投稿で引用した『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』の一節に、以前から気になっていた部分があります。次のくだりです。

服は袈裟けさたっとび、細㲲さいじょうを用いて長からず狭からず、歩く姿は悠揚ようゆうせまらぬものがあった。

慧立・彦悰著、長澤和俊訳『玄奘三蔵――大唐大慈恩寺三蔵法師伝』光風社出版、1985年

 底本原文は「服尚乹陁裁唯細㲲脩廣適中行歩雍容」(東方文化学院京都研究所編『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』巻第6之10、1933年)です。「乹陁けんだ」は、『大正新脩大蔵経』第50巻にある同書のとおり、「乾陀けんだ」に同じで、長澤先生は、これを「袈裟」と訳されています。このことが、ひっかかっていました。私としては、この部分は次のような意味ではないのかなあ、という気がしているのです。

「(玄奘三蔵は、乾陀樹の皮の煮汁で染めたような濁った黄赤色の、いわゆる)乾陀の色を尊ばれ、その色に染めた織目の細かい(すなわち一等の)綿布を使って長さも幅もちょうどよく仕立てた袈裟を着けられていました。歩く姿はゆったりとして、落ち着いていらっしゃいました」

 これは考えてみれば、次の画像、奈良国立博物館所蔵の『玄奘三蔵像』の服装とも合うようにも思います。

奈良国立博物館所蔵の『玄奘三蔵像』(西大寺旧蔵、14世紀〔鎌倉時代〕、一幅、絹本著色金泥・掛幅、縦142.4cm×横55.5cm、出典:ColBase〔https://colbase.nich.go.jp/〕

 ①牀座しょうざに坐り、②梵篋ぼんきょうを左手に持ち、③右手を胸の前に上げて薬指と小指を曲げ、④西域風の外国人と思われる侍者がむしろを持ってそばにいる、という図様は中国で成立したもので、この『玄奘三蔵像』は、現存するなかでは玄奘三蔵の真影に最も近い可能性があると考えられているそうです。
 さて、原文の「乾陀」(梵語:gandha)についてですが、「乾陀樹けんだじゅ」(ワサビノキ科)と呼ばれる香木があり、それは染色にも使うそうで(香染)、インドの人々は、その樹皮を煮た汁で衣服を染めたといいます。
 その色は、黄赤色というか褐色というか黄濁色というか、どのような原色からも遠いような、伝え方が難しい曖昧な色ですが、袈裟の色として仏教教団が認めていた「壊色えしき」(梵語:カシャーヤ〔kaṣāya、袈裟の語源〕)というものの一つだそうです。
 あるいはもしかすると、長澤先生が「服は袈裟を尚び」と訳されたこの「袈裟」は、壊色=カシャーヤの意味だったのでしょうか。しかしそうであれば、それは乾陀の色を含むあらゆる壊色を指し、原文の「乾陀」の意が失われてしまいますから、やはり衣としての袈裟として訳されたのだと思います。

 ちなみに余談ですが、玄奘三蔵の数十年後にインドに渡った義浄三蔵(635-713)は、『南海寄帰内法伝』の中で、「袈裟乃是梵言。即是乾陀之色」(『大正新脩大蔵経』第54巻)と記しています。「袈裟はサンスクリット語であり、乾陀の色のことである」ということです。
 そして、義浄三蔵は「凡是出家衣服。皆可染作乾陀」(前掲書)と主張しています。「およそ出家者の衣服は、皆染めて乾陀(の色)とすべきである」(参考:宮林昭彦・加藤栄司訳『現代語訳 南海寄帰内法伝』宝蔵館文庫、2022年)という考えです。

 この主張は、当時中国の仏教界で「律」(出家修行者集団の規則)にない「違法の色」に染めた衣服や中国独自の色の衣服が着られていたことに対する批判でした。ただし義浄三蔵は、乾陀樹を使うべきとは述べていません。乾陀樹を使わずとも、より入手しやすい顔料や余計なことの生じない方法があるので、それにより乾陀の色に染めればよいといったことを書いています。
 次に「ちょう」のことですが、これは綿布や毛布のことで、「細㲲さいじょう」は一等の綿布を指したようです。唐代は綿布に「細」「次」「粗」の三等があり、「細㲲」は織り目の細かい一等。
 木綿と聞くと、絹よりも安価でありそうな気がしますが、当時の中国は逆だったようです。木綿は絹より希少価値が高く、絹は木綿よりも手に入りやすい素材でした。
 例えばそれは、『南海寄帰内法伝』の「インドの四部派では皆、絹を着用している。どうして中国では求めやすい絹をすて、得難い細布(木綿)を求めるべきなのだろうか」という義浄三蔵の記述からもわかります。

 なお、義浄三蔵のこの主張は、当時、澄照大師道宣(596-667)が、僧侶は絹の衣服(蚕衣)を着るべきでないと主張していたことに対する反論だったようです。道宣が蚕衣の着用を控えるべきとした理由は、絹を得るには多くの蚕の命を奪わねばならないためで、不殺生や慈悲の観点での考えでした。
 道宣(596-667)は玄奘三蔵(602-664)と同世代で、玄奘三蔵がインドから持ち帰った膨大な経典の翻訳を助けた人の一人だったそうです。戒律研究の権威でもあり、優れた歴史家でもあり、今に伝わる数多くの著作がある唐の代表的僧侶の一人です。

 しかし、道宣より39歳年下の義浄三蔵は、「蚕衣を禁止するのはおかしい」と考え、絹は釈尊が使用を許しているのに、中国仏教はインド仏教にない禁止規則を勝手につくり、中国では入手しやすい絹を禁止し、わざわざ得難い木綿を求めるべきとし、本来必要のない複雑な物事の関わりを招いている、といった反論を(道宣を名指ししてはいませんが)『南海寄帰内法伝』に記しています。また、義浄三蔵はもう一つ、蚕の命を奪うからという理由で絹の使用を禁じるのなら、生きものの命をいただく食事はどう考えるのかとも批判しています。

 玄奘三蔵が織目の細かい綿布の衣を着用していたのは、道宣の考え方と関係があったのでしょうか。私は調べられておらずわからないのですが、ただ、木綿と聞いてなんとなく今の価値観から「質素」を想像してしまうようなことには気をつけなければいけないなと思った次第です。