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関羽と仏法

 先日、1年ぶりに家族で横浜へ。とりあえず中華街、そして美術展、音楽関係、遊園地などで過ごしました。中華街は日曜日とあって、いくらか賑やかでしたが、活気があるのはいいですね。少し前、コロナ禍のせいで老舗有名店が閉店しましたが、今はまち全体としてコロナ禍前の賑わいが戻ったという話で、よかったなと思います。

 中華街では、久しぶりに山東で水餃を食べたり、お茶したり、雑貨店で器を買ったり、お菓子を買ったり。翠香園で「玉帯糕ぎょくたいこう」も買いました。玉帯糕は、もち米粉、クルミ、ごま油、水飴などを原料に作るお菓子。甘すぎず味わい素朴で、私は好きです。

 それから、関帝廟かんていびょうでお線香をあげてみたり。私は、こちらの関帝廟で焼香したのは初めてでした。
 参拝案内を読むと、まず、玉皇上帝(絵や像はなかったです)、続いて関聖帝君、地母娘娘、観音菩薩、福徳正神の順にお線香をあげてお参りしていきます(こちらの神様は本当にこの5人だけでしょうか? こうした廟は、もっとたくさんの神様が祀られているものと思っていましたが)。
 何も考えずに入ったもので、「住所、名前、生年月日を伝えて、さあ願い事を」といわれても、とっさに出ず、そういうとき思わず祈るのは、やっぱり常日頃願っている娘の幸せや将来や、息子の魂の幸せとか、妻の健康だったりしますね。願い事は、あらかじめ考えをまとめておくべきでした。

 さて、玉皇上帝は、一般に道教最高の神様とされているとか。天公、玉皇、上帝、天帝、玉天大帝など異称多数。
 地母娘娘は、いわゆる后土神のようです。天と対である地の神。皇天后土、地母神。天は陽、地は陰、男は陽、女は陰。それで女神。
 観音菩薩は、仏教のお寺に祀られているあの観音様でしょうか。道教においてどういう信仰をされているのか私は知りません。こんど調べてみたいと思いました。福徳正神という神様のことも、知りません。

 関聖帝君は、こちらの主神。『三国志』の英雄、関羽です。『三国志演義』の関羽なら、ちょっと知っています。
 
 関聖帝君を略して関帝。関公、関帝爺、山西夫子、蓋天古仏、協天大帝、伏魔大帝などの呼び名があるようですが、「関聖帝君」は1614年に明朝によって与えられた「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」という封号の略だそうです。長い。
 関羽はいつから神様なのでしょう。当初は武神だったようですが、今は財神、商売や商人の神様として有名です。
 儒教でも文衡聖帝という神だそうですが、仏教の神でもあるという話を読みました。なんでも関帝は、「仏教でも神として、関帝菩薩、伽藍菩薩とよび、多くの場合、寺の守り神、護法神としている。マレーシアのイポー郊外のペラ洞でも、護法神として上部の壁面にその大画像が画かれていた」(窪徳忠『道教の神々』)ということです。

 それで思い出したのですが、日本の臨済宗中興の祖・白隠慧鶴はくいんえかく禅師(1686-1769)が還暦以降に描いた関羽の絵が3種現存しています。ほかの作品同様、これらも描いて人に与えたようです。白隠禅師は、もしかしたら仏教の伽藍神や護法神などの意味で描いたのだろうか、などと思って資料を見直しましたが、そういうことではなさそうですね。
 3点とも、関羽の生涯をたたえる賛文が上部に書かれています。書き出しはいずれも「勇皮仁髄、忠胆義腸。力は楚の項籍、智は漢の子房」。項籍は項羽(項籍のあざなが羽)、子房は劉邦に仕えた張良の字です。
 関羽は、浮世絵などを通じて民衆にも広く知られ、江戸時代もみんなが知っているキャラクター。白隠禅師はその点を利用し、関羽の生き方を称えることを通じて何か教えられたのかもしれません。

 また、関羽と仏教というと、『三国志演義』第77回に「関羽の魂、玉泉山ぎょくせんざんに悟る」という回があります。関羽や子の関平かんぺいが呉につかまって首をはねられたあと、彼の魂(ほとんど怨霊)が仏教の僧侶に救われ、仏に帰依する話です。

 村上知行訳『完訳 三国志』から引用しますと――、

 関羽の魂は、すぐには消えて散らなかった。蕩々悠々ふわりふわり、迷い迷って行きついたさきが荊門州当陽県けいもんしゅうとうようけん玉泉山ぎょくせんざんである。山のうえにひとり、としよりの坊さんがすんでいた。法名を普静ふじょうという。汜水関しすいかん鎮国寺ちんこくじにいて、関羽の危難をすくい、そのご天下を行脚あんぎゃしてまわるうちに、ここの山紫水明が気に入って草庵をむすび、まいにちを坐禅修行に暮している。身のまわりには弟子の小僧がたったひとり。その夜は月があかるく風がきよらか。やがてまよまかをすぎ、普静がしずかにすわっていると、とつぜん、空に人の声だ。「わが輩の首をかえせ!」ときこえる。
 普静が庵をでて仰いでみた。空中に人影である。赤兎馬にまたがり、青竜刀をひっさげている。ひだりに白面の将軍(関平である)、みぎに黒面、みずちひげの人(周倉である)がついている。いっしょに雲に宙のりのかっこうで玉泉山のいただきにさがってくる。普静が「関羽だ!」と気がついた。手にする払子ほっすで草庵の戸をひとたたき――。「関将軍、どこにいられるのか?」と声をかけた。関羽の魂が、この、どこにいられるのか、の一言ひとことではっと気がついた――さとりであった――馬からおりる。風にのる。草庵の前まできて敬礼しながら、「法師ほうしはどなたか? 法名ほうみょうをうけたまわりたい」という。「普静と申します。そのむかし、汜水関の鎮国寺でお目にかかっている。お忘れだったかな?」「おお、お助けをいただた、あのご坊か? どうして忘れよう! 今日、わざわいにあい、殺された、このわが輩の迷いをさましてはいただけまいか?」 普静がそこで、「昔はどう、今はこう、と仰せになることはございません。いんあり、あり、事に不思議はないものです。将軍、あなたは今日、呂蒙りょもうの害するところとなられ、『わが首をかえせ』と大呼されますが、すると、顔良がんりょう文醜ぶんしゅう・五関の六将――かれらはいったい、どこのどなたに、わが首をかえせといったものでしょうか?」 関羽は、あたまをさげたのである。帰命頂礼きみょうちょうらいの心であった。
 玉泉山には、こののちしばしば関羽が姿をあらわした。あたりの人民に保護をくわえた。人民がこれを感謝し、山の上にやしろをたて、四季おりおりに祭を行なった。

羅貫中作、村上知行訳『完訳 三国志』(四)

 羅貫中は14世紀、元末から明初にかけての人だそうですが、その100年くらい前といっていいでしょうか、南宋(1127-1279)の志磐しばん(生没年不詳)による仏教史書『仏祖統紀ぶっそとうき』(1269年)に、これと似た話があるそうです。
 そこは読んだことがないので、見てみました。
 似た話というのは、天台宗の三祖にして実質的開祖である隋の高僧・智顗ちぎ(538-597)が荊州の当陽の玉泉山に行ったとき、彼の前に関羽・関平親子が現れて戒律を授けたという説話でした。
 
 引用しますと――、

 その夕べ雲開け月明らかなり。二人を見るに威儀は王長者の如く、美ぜん豊厚なり。少者は冠帽して秀発なり。すすんで敬を致して曰く、「予は即ち関羽なり。漢の末紛乱し、九州瓜裂す。曹操不仁にして、孫権自保す。予は蜀漢に義臣たり、帝室を復せんと期するに、時事相違し志ありて遂げず。死して余烈あり。故に此の山に王たり。大徳聖師は何ぞ神足をぐるや」と。師の曰く、「此の地に於いて道場を建立し、以て生身の徳に報ぜんと欲す」と。神の曰く、「願はくは我が愚を哀閔あいびんし、特に摂受しょうじゅを垂れ給へ。此れを去ること一舍して山覆船の如し、その土深厚なり。弟子まさに子平と寺を建て、化供して仏法を護持すべし、願はくは師は安禅すること七日、以てその成るをて」。師既に定を出て、湫潭千丈を見るに、化して平阯たり。棟宇煥麗、巧み人の目を奪へり。神は鬼工をめぐらして、其の速きことかくの若し。師は衆を領して入居し、昼夜法をぶ。一日神は師にもうして曰く、「弟子今日出世間の法を聞くことを獲たり、願はくは心を洗ひ、念をやわらげ、求めて戒品を受けて、菩提の本と為さん」と。師は即ちりて、授くるに五戒を以てす。こゝに於いて神の威德あきらかとして千里にき、遠近瞻祷せんとうして粛敬せざることなし」

佐藤満雄訳『仏祖統紀』巻6、『国訳一切経 和漢撰述部 史伝部2』より(一部のルビは私)

 原文を照らしてみても、私には意味がよくわからないところが何か所もあるのですが、話のあらましは次のように理解できるでしょうか。すなわち――、

 玉泉山において、関羽・関平親子の霊が智顗の前に現れた。関羽がいうには、死後なお怨念を抱き、この玉泉山を支配している。関羽が智顗にここにいる理由を尋ねると、智顗はこの地に道場を建てたいと答えた。すると関羽は、私の愚をあわれんでぜひ導いてほしい、また、関平と一緒に寺院を建て、供養し、仏法を護るから、7日間待つようにいう。
 そして関羽たちは、ものすごいスピードで、輝やくように美しく、巧みさは人の目を奪うようなすばらしい堂宇を建てる。智顗はそこで昼夜に法を説いた。関羽は「あなたの弟子(自分)は今日、悟りの道を聞くことができました。心を洗い、念をやわらげ、戒を授かり、悟りの道の本としたいです」と願ったので、智顗は五戒を授けた。これにより関羽の威徳はあきらかとして広まって、敬わない人々はなかった。

 しかしこの話、『仏祖統紀』のこの部分に出てくる脈絡すら私には理解できません。唐突というか、浮いている感じがします。しかし、考えてみれば『三国志演義』の「関羽の魂、玉泉山に悟る」も、何かどこかとってつけたような、奇妙な感じがしてきます。

 『三国志演義』では、関羽の魂は普静に出会い、救われて帰命頂礼しますが、そのあと続けて、関羽が呉の将軍・呂蒙にのり移って孫権をののしらせ、呂蒙はそのまま死んでしまうという事件が起こります。また、孫権から届いた関羽の首を曹操が見たとき、関羽の口が動き、目が動き、髯がつっぱるという現象が起こって、曹操は気絶してしまいます。
 どういうことでしょう。仏に帰依して悟りの道を歩むという感じではないです。

 もしそうなら、それはなぜかということになりますが、関羽の魂が仏教の僧侶に出会い、仏教に帰依して護法神になるといった話は、『仏祖統紀』以前から語られていて、広く知られた説話だったのではないかという気がしてきます。つまり、よく似ているけれども、『仏祖統紀』が「関羽の魂、玉泉山に悟る」の元ネタであるとはかぎらないのかも、と。ぜんぶ憶測ですが。

追伸:中華街「KOTOBUKI Cafe」のフルーツポンチソーダがおいしいので、おすすめです。暑い日にぜひ。

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