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この国の「音楽」や「芸術文化」は立ち上がらないのか?〜アメリカ黒人男性死亡“抗議デモ”世界に拡大


地球の裏側で起こったことに対して、そんなデモにどんな意味があるのか、今はコロナ感染を考えるべきだ、現場の最前線で命懸けで踏ん張っている医療従事者に申し訳ないと思わないのか。これでクラスターが起きたら人種差別どころの騒ぎではすまない。

全てが正論だ。そして、その国民性は、あいかわず客観的で、立派なコメントが溢れて、さすが日本人の「民度」は素晴らしい。

あなたが世界各地で起こっている「暴動」を見て、「おたくとは民度が違う。」と思っているんだとしたら、残念ながら、麻生大臣と何ら変わらない、全く同じ類の人間であると言われても仕方がない。


世界各地で噴き上がっているのは、不正義に対する「怒り」である

                                 「ブラック・ライヴズ・マター」は、いつもいつも「肌が黒い」という理由だけで「白人」から差別されているかわいそうな黒人がいるから、「差別はやめましょう」と諭して仲裁するような運動――では「まったく」ない。

ブラック・ライヴズ・マターとは、アフリカ系アメリカ人のコミュニティを起源とする国際的な人権活動で、黒人に対する暴力や、制度的人種主義に対抗する運動をおこなっている。警察による黒人の殺害や、人種観に基づくプロファイリング、警官の残虐行為、米国の刑事司法制度における人種的不平等といった幅広い課題について、つねに、抗議の声を上げ続けてきている。そして、今回の事件で、もはや我慢の限界を超えた激怒の渦が、いま世界中を覆っているものの正体なのである。

1789年のフランス人権宣言以降、すべての人類は、まったくの無条件に、完全に等しく平等な「人間として当たり前の尊厳」を保障されなければならない。「いつの日にか」完全なるこれを達成するために尽力し続けることは、人類の全員に課せられた責務なのである、それは、アメリカ人であろうと、日本人であろうと。


つまり、「差別」とは、人としてあるべき「行為」のことではなく、人としてあるべき「状態」のことである。
そして、「人権」とは、人としてあるべき「状態」のことではなく、人としてあるべき「行為」のことなのである。


もはや、デモがどうとかという問題ではない。まるで「人権」の概念が獲得出来ていないこの国の人間は、コロナ感染を言い訳にして、この問題から目を逸らしているだけじゃないのか。

もちろん、日本にもこのことに気づいた人はいる。そうした人々は、すでに一連の抗議活動への賛同と連帯の意志を、さまざまな方法で示してはいる。ただ、その数が依然として、あまりにも少なすぎるように、私には思える。

人道に対する罪が、すぐ目の前であったとき「あなたは目を背けるのか」ということが、問われている。世界の裏側で起こったから無関心を装うのであれば、もし、あなたの目の前で起こったとしたら、ほんとうに「怒り」がこみ上げてくるのだろうか。


「非対称戦争」おいて、優位に立つのは、道義的に「立派」な側でもなく、「知識」の側でもなく、あくまで「物語」を支配する側である。


立派な人間が世界の代表者ではない。すべての人間は完璧ではなく、人間 (生命)はヴァルネラブルな存在なのだろう。世界の代表者はそのような脆く、非力な生なのである。

この国では、こうしたデモ活動が起こると、「セカイ系」批判が一斉に起こる。「セカイ系」とは、平穏な日常と「最終戦争」との間に中間過程がなく、日常を生きる普通の主人公がある日突然、危機に立たされた世界を救う救世主となるのが「セカイ系」と言われる物語の系譜である。

リアリストたちは、ごく私的な出来事と世界の終わりの中間にある情報を一気に省略するこの手法は、まだ小さな世界しか知らず、スケールの小さな危険と世界が終わるような大きな危険を直結しやすい「子供の感覚」として、上から目線で批判を展開する。だが、それの一体何が問題なのか。重要なのはコンセクエンスである。「物語」を支配したものが最終的には優位に立つ。あれこれいつも何か出来ない理由を用意して、何も行動せず、何一つ結果の出せないリアリストほど、無意味なものはない。


そもそも、この国の音楽やライブ、アートシーンは立ち上がらないのか?


世の中を変える歌に必要なのは、広い音楽性や過剰なメッセージ性だけではない。ミュージシャンの人種差別を公に撤廃した最初のライヴ会場は、ニューヨークのカフェ・ソサエティだった。

コロナ騒動の真っ只中で、政府に助成を求めるときには、「小さな星が集まって大きな宇宙になった。この手を離さないでやっていきたい」、「文化はこれからが出番。心に穴があく人が出てきて、その穴を埋めるのが文化」、「アーティストは生命維持に必要不可欠な存在」、「文化の多様性を守りたい」などの美しいメッセージを発していたではないか。

音楽や文化は社会世界の音楽シーンはいま再び現代の対話の最前線にある。そもそも、音楽とは「芸術」を志す者の幼稚なロマンチシズムと誇大妄想的なナルシシズムの象徴である。だが、そこには対話があるはず。


ライブは民主主義には不可欠な芸術の表現である。 何故ならライブと民主主義は同じ発祥地だからである。だが、この国の「音楽」、いや日本には「対話」という概念がない、あるいは薄い。この国の政府も音楽も単独の権威として語られるモノローグの物語を観客に話をしている。
そして、肝心な時に、誰も動かない。これがこの国の「芸術文化」の正体である。


音楽が社会を変える力を持っていることを示す最も完璧な例が、ビリー・ホリデイが1939年に発表したアベル・ミーロポル「Strange Fruit」のカヴァーが世の中に与えたインパクトである。レコード・プロデューサーであり、アトランティック・レコードの創業者のひとりだったアーメット・アーティガンは、「あれは宣戦布告だった…公民権運動の火付け役だ」と振り返っている。

社会的不公正の犠牲になっているジェンダー、人種、民族、性的嗜好、障害等特定のアイデンティティに基づく集団の利益を代弁して行う政治活動は、みな音楽を通して形作られてきた。
私たちを元気づけ、癒し、刺激を与え、教育してくれる。しかしそれはほんの入口だ。そんなことが可能である最大の理由は、恐らくそれが生身の人間、弱さも欠点もある人間によってプレイされているからであり、だからこそ音楽がなく紙に書いた歌詞をただ読んでもどこか物足りないのだ。遥か昔から、歌は世の中を映す鏡として、私たちの身の回りに起こっている出来事を映し出してきた。そして間違いなく、他のどのアート・フォームとも違う方法で、音楽は社会を変えてきたのである。

「Strange Fruit」はただシンプルに反吐が出るような厭わしさと深い悲しみをじわじわと滲ませるのである。この曲に触発された人々が、マーティン・ルーサー・キングJr. を支持して100万人大行進に加わり、彼らの孫の世代もまたブラック・ライヴズ・マター運動に身を投じている。この歌はそれほどまでに人々の人種に対する考え方に絶大なるインパクトを与えてきた。

世界の音楽シーンは、過去に起こった人種や性別をめぐる革命同様、いま再び現代の対話の最前線にある。アノーニやクリスティーン&ザ・クイーンズから、メインストリームで人々を扇動するレディー・ガガまで、率直な物言いのアーティストたちは性別の流動性についての認識を広め、オーディエンスに呼びかけ、先入観に凝り固まった考えを瓦解へと導いている。それはまさしく音楽がこれまでずっと、そしてこれからも果たして行く役割なのだ。

この問題は、対岸の火事ではない。遠く離れた大陸での出来事かもしれないが、しかし「日本人だから」という理由で無視していい問題ではない。ブラック・ライヴズ・マターの問題だけではない、シリアやウイグル、ロヒンギャ、南スーダンで起こっていることは、日本人も人類の一員である以上、決して無視はできないのは当然のことなのである。


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