叡智を集結させて文明の流れを修正せよ


「叡智を集結させて文明の流れを修正せよ」ルイス・マンフォード


プロメテウス(技術)とオルフェウス(芸術)

人間を最初に人間たらしめたものは、道具を使うという技術(プロメテウス)であったのか、それとも、形態や意味を表象する芸術(オルフェウス)であったのか、それは大いに議論が出るところだが、いずれにしても、人類の文明の発展(あるときには、後退とか停滞とか破壊があるだろうが)には、2つの推進力―――プロメテウス(技術)的な推進と、オルフェウス(芸術)的な推進が絡んでいる。同時に付け加えるならば、この2つの推進力は一人の人間の内にも同居する。


人間を置き去りにして「技術」だけが勝利した


マンフォードはどちらの力が優で劣か、ということを論じない。かつてその二つは表裏一体となって睦まじい関係にあったが、いつしかその二面は剥ぎ裂かれてしまい、双方が均衡を欠いていることが現代の危機であると指摘する。均衡を欠くとは、すなわち、プロメテウス(技術)の肥大化・暴走化とオルフェウス(芸術)の衰弱化・病弊化だ。


人間性を失くした「技術」の肥大と暴走は、
同時に、「芸術」の衰弱と病弊を呼ぶ。


機械の誇りとする能率にもかかわらず、またエネルギー、食糧、素材、製品がありあまるほど豊富なのにもかかわらず、質の面では今日の日常生活はそれらに見合った改善がなされず、文明のなかで充足し栄養十分な大衆が、情緒的不感症と精神的冬眠、無気力と萎びた願望の生活を送り、近代文化の真の潜勢力に背を向けた生活をしている。


「社会が健全なときには、芸術家は社会の健全性を強めるが、社会が病んでいるときには、同じようにその病弊を強める」。


マンフォードも各所で指摘しているのだが、「技術」と「芸術」は単純な二元論で片付けることができない。もし、これらが単純な二元対立でとらえられるなら、一方の「技術」の暴走は、もう一方の「芸術」の復興によって修正することができるはずだ。―――しかし、残念ながらそうはならない。「芸術」はいったん崩壊の流れに乗るや、みずから崩壊の度を強めていくのだ。


真の芸術の衰退は、人びとがそれを求めなくなることで加速される。


私たちは、「技術」を「富」の増幅と獲得に用いるばかりである。確かにそのことによって、先進国では物が増え、娯楽が増え、平均寿命は延びた。現代において、「技術」だけが勝利しているように思える。芸術は縮み、人間は技術の配下に置かれる状況が生まれている。この事態を健全な状態に切り返す手立てはいったい何なのか? 


マンフォードは言う――――

「救いの道は、人間個性を機械へ実用的に適応させることにあるのではなく、機械はそれ自体、生活の秩序と組織の必要から生まれた産物だから、機械を人間個性に再適応させることにある。つまり人間類型、人間的尺度、人間的テンポ、とりわけ人間の究極目標が技術の活動と進行を変革しなければならない。
人格のない技術によっていまやまさに枯渇させられた生気とエネルギーとを、もう一度芸術のなかに注ぎなおさなければならない」。

結局のところ、人間が「技術」を司るのである。結局のところ、人間が「芸術」を司るのである。「技術」の自己肥大化、「芸術」の自己病弱化に人間が振り回されているのが重大問題なのだ。そのために、私たち人間は、「技術」の主人となれ、「芸術」の主人となれ、そのために叡智を集結させて文明の流れを修正せよ、これがマンフォードのメッセージである。


大きなシステムの中で部品化する人間


しかし、「技術」の主人となる、「芸術」の主人となることは、そう簡単な話でない。私たちは今日、標準化、大量生産、大量消費、分業、カネがカネを生む経済システムによって“生かされている”。

もっと多くを欲し、もっと多くを生産する。もっと速く生産し、もっと速く消費する。そうして工場を稼働させ続け、拡大再生産回路を絶たないようにする。これこそが社会を潰さず、企業を潰さず、個人の生活を潰さないための唯一の方法―――現代文明は、ブレーキもハンドルもなくアクセルしか付いていない暴走車にいまや何十億人という人間を乗せて走っているのだ。
大量生産・大量消費・拡大成長・競争原理を前提とした経済は、必然的に、仕事の分業化を押し進める。仕事の分業化は、働く個人の技能的部品化・知能的部品化を意味する。


手仕事の職人という理想形

マンフォードは労働者の理想、そして「技術」と「芸術」のよき均衡を19世紀中葉までの手仕事の職人に見る。

「かれ(職人)は自分の仕事に時間をかけ、自分の身体のリズムに従ってはたらき、
疲れれば休息し、経過をふり返っては工夫し、
また興がのったところでは、ためつすがめつ、あれこれ手をかけていた。
だから仕事はあまりはかどらないが、かれがそれに費やした時間は、真に生きた時間だった。

職人も、芸術家とおなじように、
自分の仕事に生き、仕事のために生き、仕事によって生きたといえる。
はたらく報酬も、そうした活動そのものにもともと備わっているもので、
かれ自身が製作工程を支配する親方であるという事実は、人間的尊厳の大きな満足であり、その支柱でもあったのだ。

手仕事のもうひとつ報いられた点は、
職人がさらに技術的に熟達すれば、
仕事の操作から仕事の表現という面に移行できたことなのだ。


ちなみに、19世紀中葉に活躍し、アーツ・アンド・クラフツ運動の中心的人物だったウィリアム・モリスも職人的手仕事を理想的な労働とした一人であるが、彼は著書『ユートピアだより』の中で、有用な仕事は3つの希望を与えると言っている。

その3つとは―――
「休息という希望」、「生産物という希望」、「仕事自体楽しいという希望」である。


マンフォード批判

確かに、自らの意志の下で行う職人的手仕事という労働はひとつの理想形ではある。しかし、この現代社会において、そして地球人口が70億人を超えそうな状況において、すべての人間が職人的手仕事に従事して世界経済を回していくわけにはいかない。

私たちはやはり大量生産・大量消費、分業制、企業組織、金融システムといったものを利用しながら人類を食わせていかねばならない。しかし人間がそれらの下僕になってしまってはいけない。その解決のための決定打は何なのか。


1人1人が1日1日の小さな決断をたくさん積み重ねた結果、流れが変わる


マンフォードはきちんとそのことについて言及している。しかし、その決定打というのは、即座の劇的な方法ではない。それは、一人一人が“ヒューリスティック人間味”を取り戻すこと、生物全体、人間全体へと関心を方向転換させること、内なる自分を見つめ、耳を傾け、心中の衝動と情動に応える習慣を身につけること、だと彼は言う。なぜなら、文明の流れの全面的変化は、ある独裁的命令で即座に生じるのではなく、新しいアプローチや新しい価値観の傾向や新しい哲学などから生じる一日一日の小さな決断をたくさん積み重ねた結果」もたらされる(されてきた)からである。


そうした答えを大勢が見くびっていく先には、文明の衰退があるだけだ。


「一人一人の人間が叡智を湧かせて変わる。それこそが世界をよく変える唯一確実な道」

―――平凡だがこれほど偉大な答えはない。


「芸術」は原初的で自然発生的なモーレス(習律)である。そして、「芸術」は法律よりも信頼できる。これは、特定の世界観の下で、あらゆる利害関心を満足させる「正しい」方法であり、つねに「真」である。繰り返しによって身体化され、日常的配慮であり、非明示的で、強制力は弱い。「芸術」はその共同体における規範の「暗黙知」である。いわゆる社会的配慮の大部分は「芸術」に属する。

人間は、本来、逸脱的存在である。しかし、さまざまな「紐帯」によって、失うものがあることで人々は結びついている。ところが、資本主義による欲望の拡大が個々人の利害対立を助長し、社会的紐帯を解いてしまう。経済のグローバル化や新自由主義の進展や過度の競争による従来の共同体秩序の解体がその事態を悪化させている。
それは「芸術」の希薄化もしくは弱体化であり、現代日本では「芸術」の再検討が何よりも不可欠だということを意味する。それは日常性の再構築である。

社会の紐帯は「生産」を通じてしか生まれない。人が人を「必要」とする関係性こそが、芸術経済社会に通底する概念である。


高齢者も障がい者も女性も、全て人は、「生産」に携わり、他人の役に立ち、人類の一部としての自覚を持つことで人生に光を見出すのである。すなわち「生産」とは、人が価値ある人生を送るために必須の手段であり、またそれ自体「目的」でもあるものなのである。消費は人を孤独に陥れる。また、一般的には社会の主体は「生産」であり、「消費」ではなく、社会の紐帯は「生産」を通じて生まれると言われている。人間は生産を通じてしか付き合えない。やらねばならぬ仕事が無数にある。だからこそ、その数だけ人々の労働が必要とされ、高齢者にも、誰にでも居場所が空けられている、究極のワークシェアリング社会が営まわれているのである。



芸術とは、生産物であり、楽しい仕事であり、休息である。



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