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ゲンマイドトキシンの構成的アプローチ



さあ、ウイルスとの戦いが再開する〜
ゲンマイドトキシンの構成的アプローチ


新型コロナは一つの理念


環境と遺伝子の間:あなたのエピジェネティクスは常に変化している。
芸術文脈におけるエピジェネティクスとは、遺伝子ではない、「演劇」である。

ウイルスはゲノムとしてDNAかRNAどちらか一方の核酸をもつ ウイルスの複製に必要な遺伝情報がゲノムにコードされている。 新型コロナの生命活動は、科学における数値実験による現象の再現及び詳細な考察、そして理論的研究による数理的な理解だけでは、ウイルスの複雑な生命現象の本質が解き明かすことは出来ない。

ゲノム計画によってDNAが解読されても、すぐにそれが生命現象の理解を意味するわけではない。RNAやDNAはあくまでも設計図であり、細胞のような小さな反応系における 揺らぎが機能の発現に及ぼす影響などを解明する必要がある。

新型コロナウイルスは、コンピュータウイルスで言えば、バッグドア型ウイルス。感染後に攻撃者が自由に感染したコンピュータにアクセスするための秘密の扉(バックドア)を作る。バックドアとは一般的なコンピュータウイルスと違い、PC内のデータの破壊などを表立って行うのではなく、侵入したことを気づかれないようにひっそりと身を潜める。攻撃者はバックドアを経由し、PCからパスワードなどの情報を盗み出したり、他のPCへの攻撃に使用したりなどの攻撃を行うウイルスである。

科学によるアプローチは、感染時に細胞内で生起する分子ネットワークの異常・攪乱をモニターし、病態に至る分子メカニズムの解明を目指す。
生命活動という命題に対して、様々な現象に関わる生体分子を探し当て、その機能を解析することにより、生命科学は飛躍的な発展を遂げてきた。また、ゲノムという分子のカタログ情報が手に入った結果、複数の関連分子を試験管内で反応させることにより、複製・転写・翻訳など特定の細胞内現象の部分的な再構築がすでに成功している。このような科学的なアプローチはこれまでにも生体分子が高次機能を生じる仕組みについて様々な知見も徐々に萌芽しているのも事実である。

新型コロナウイルスのアプローチは、生体分子が織りなす分子ネットワークの定量的な理解や、分子ネットワークが機能において、科学によるデータ収集に重点をおいた記述的アプローチから、生命システムの動的な振る舞いに関する定量的な予測とその検証に重きをおいたアプローチへの転換を図られなければ、対象としている生命機能と私たちの知識や理論に大きな齟齬をもたらすことになる。その齟齬は新たな解析的・構成的な研究の種となり、対象となる現象の本質の理解からかけ離れて、果てなき分子メカニズム解明のパラドクスを呼び起こす。

ウイルスは「細胞」を構成単位とせず、自己増殖はできないが、遺伝子を有するという、非生物・生物両方の特性を持っている。自然科学・生物学上、生物・生命の定義を厳密に行うことはできていないため、便宜的に「細胞」を構成単位とし、代謝し、自己増殖できるものを生物と呼んでおり、ウイルスは「非細胞性生物」あるいは「生物学的存在」と見なされている。

ゲンマイドトキシンの構成的アプローチの命題とは、とりもなおさず「細胞」とは何か、「生命」とは何か、という生命科学における根本問題を不断に考える営みでもある。そのため構成的アプローチは、自然科学的観点においてだけでなく、社会や文化との関わりにおいても注目すべき広がりをもっているのである。

構成的アプローチとは、科学的研究手法とは異対象を観察・分析し、記述するという従来の科学的方法と相補的なもので、簡単に言うならば、システムを作って動かすことにより理解しようという方法、研究対象のモデルを構成することで、ある論理を実現するための十分条件を示す方法である。つまり、その論理を実現するために必ずしもその条件が必要とは限らないが、その条件であれば目的の論理を実現することが可能、といった条件を示すことである。「条件」といっても、それには初期値や境界条件、パラメータに限らず、モデルの物理構造や論理構造などのアーキテクチャーも含んでいる。

科学は一定の概念群を所与としたうえで、概念同士をつなぐ関数を創造する営みであるのに対して、芸術は新しい概念を創造する営みである。
「芸術」における思考の展開は、科学のように仮説を立て実験で検証するという理路はとらない。世界はシンプルかつ論理的・数学的であるから、心に思い浮かべたことを徹底的に考え抜けば、いつしか正しい答えが得られると考える。

それは、一般的には思弁的という日本語で表現され、理屈だけというニュアンスを伴うが、この国ではしっかりと考え抜くとか、芸術することを諦めないということが圧倒的に不足している。
私たちの時間性はオルタナティブな構成的プロセスへと移行し、未来からの観点から、先回りして来るべきものを把握し、「芸術」を囲んでいく必要がある。

科学によるアプローチは、感染時に細胞内で生起する分子ネットワークの異常・攪乱をモニターし、病態に至る分子メカニズムの解明を目指していく。

新型コロナウイルスは、免疫を攻撃し基礎疾患症状を押し出すブーストウイルスである。
真のターゲットは基礎疾患、つまり、癌、肥満、糖尿、高血圧などの生活習慣病である。
ウイルスー基礎疾患をベクトルとしてのアプローチすること重要になってくる。

抗ウイルスと癌や高血圧、糖尿病治療は同じベクトルにあり、コントロール可能な慢性疾患と捉えるべきである。また、新型コロナウイルスは、全体的社会的現象のフェーズに突入していることである。全体的社会的現象とは、社会集団の法的、倫理的、政治的、経済的な側面が一気に表れる現象で、いずれか1つには還元できない。

新型コロナに対する予防と対策は、医学や疫学、生物学だけの領域で対処できるものではなく、社会的、経済的、倫理的、そして、コミュニケーションのあり方までを人類に問うてきている。

最先端の研究の進展の方向性を考えるとき、従来とは異なった観点、発想、手法、技術などが新たな成果を生み出す例は非常に多い。これは従来はあまり結びつかなかった複数の学問分野にわたって精通している研究者や、複数の学問分野の研究者らが共同で研究に当たる、などによってもたらされる。これが学際的研究と呼ばれる。その学際的研究が発展すれば、場合によってはその後、それは体系立てられた知識として整理され、新たな学問分野を形成する可能性があるが、そうなった時点では、その研究は学際的な研究とはいえなくなる。

なおこのように新たに形成されたかされつつある新型コロナウイルスにおける学問分野は、境界領域であると言える。
対象を観察・分析し、記述するという科学的方法は、何かを理解する唯一のやり方ではない。この分析的・記述的方法と相補的なものが「構成論的手法」、簡単に言うならば、システムを作って動かすことにより理解しようという方法である。

構成論的手法のさらなる利点は、従来の科学的手法が不得意とする主体性をもった対象へチャレンジできることである。もともと従来の科学的手法は、主体性をはぎ取った客観的存在としての対象を見いだすことで可能となる。一方、構成論的手法では、主体性をもった要素システム群とそれらの間の相互作用を構成し、その全体のシステムを客観的対象として考察の対象とする。すなわち、主体性を客観性の中に埋め込むのである。

このように構成論的手法は、複雑系などの現代の問題を研究し、既存の分野に囚われない知識を得るための重要なツールとなっている。そこでは、ただ外にある状況をシミュレートするのではなく、適切に抽象化してつくられた世界のダイナミクスを通して、存在論的に深められた洞察を得ることが可能であり、リアリティそのものを作り出しているとも言える。

科学は一定の概念群を所与としたうえで、概念同士をつなぐ関数を創造する営みであるのに対して、私たちは、非科学者である芸術家は、決してそうした理路は取らない。

だったら、自分たちの手で証明して見せよう。
トレーニング・イミュニティ〜訓練免疫の臨床というオルタナティブな「演劇」に参加してみないか?

私たちは無名の一匹のマウスにすぎない。だが、意識あるマウスである。私たち自身で臨床を形象し、科学にバトンを繋ごうじゃないか。
この国には世界に誇れる免疫学がある。免疫学は日本が世界でも大きな成果を上げている分野の1つであり,日本発のマクロファージ学は世界でトップクラスの素晴らしい研究レベルを保っている。

だからこそ、この素晴らしい新たな冒険に
僕たちと一緒に出発しようって、きみを誘ってるんだよ。

僕たちはとても混乱しながら探求を進めているんだ。でも、僕たちはこう確信しているんだ、このウイルスや災害の続く何年かは、なにはともあれ、僕たちが存在の新たな次元を発見することを可能にしてくれるだろう、ということを。

この未知のウイルスと闘いを展開するのは、政府でも、議会でもない。そして、必要なのは批判でも、議論でもなく発議であり、行動である。この国では、様々なデータ解析や予測が行き交っているが、共通するのは誰も闘わないということだ。
ウイルスから共存共生を謳いながら、ただ接触から逃避を繰り返すのであれば、それはゾウリムシと何ら変わりがない。
ゾウリムシは、どこかで何らかの刺激を受けると、逃避運動をおこす。まず後方へ退き、次に向きを変え、さらに前進運動を始める。このようにして障害物は遠ざけられる。この場合、同一の知覚標識は、つねに同一の作用標識によって消去される。

人間の生命表現とは、存在に依拠し、存在を変容させ、存在を生産し、存在を再生産する実践のことである。
私たちは一匹の無名のマウスかも知れない、だが意識を持つマウスである。自らの意識で臨床を展開する。

芸術における思考の展開は、科学のように仮説を立て実験で検証するという理路はとらない。世界はシンプルかつ論理的・数学的であるから、心に思い浮かべたことを徹底的に考え抜けば、いつしか正しい答えが得られると考える。

これらの課題に真正面から 世界規模で 抜本的に 挑まなければならない。 私たちにできる最善のことは自分に動員できる大規模な市民のグループを集めてることではなく、運動の「質点」となるコンセクエンスを示すことであり、世界のリーダーに抜本的変革の実行を求めることである。
                   
一度大成功するだけでは 不十分であり、SDGsとは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」 持続可能な運動、変わりやすい政治家の気分や 景気減退の兆しなどに 影響されない運動が必要であり しかも世界中で起こる必要がある ということ。でなければ どの政府も必ず 備え持った言い訳体質でもって 世界規模の取り組みを自国だけで 背負えるわけないと言い逃れるからだ。

僕たちの芸術は、限られた論理空間での論文でもアドボカシーでもない、現実空間におけるインスタレーションのコンセクエンスである。

僕たちの芸術は決して 限られた論理空間におけるスタティックな政策や法律を目的とするものではなく、現実空間での人間の動的なアクションのなかで考え、具象のインスタレーションを通じて論理の概念化を展開していく。


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