見出し画像

「コロナアドバンス・ディレクティブ」 〜〜 高齢者による決死の覚悟とは


「コロナアドバンス・ディレクティブ」〜この国は命の順序についての本質的議論を展開し、「人権」の思想核に接近すべき


「人権」概念のキーポイント因子は「権利」ではなく、「尊厳」


「コロナアドバンス・ディレクティブ」には法的拘束力はないが、意思表示を明確にすることで、医療現場の負担を軽減する狙いがある。

アドバンス・ディレクティブ(事前指示書)とは、リビングウィルや医療判断代理委任状などの医療上の決定についての本人の要望を伝達する文書や記録のことである、リビング・ウイルは、患者が事前に不必要な延命措置をしない,すなわち尊厳死を望むことを文書で宣言しておくことをいい,その場合は医師は患者の意思に従い蘇生術などの延命措置を行わないDNR(DNR:don't resuscitate)を選択する。


「若い人に高度医療を譲ります」 
石蔵文信医師が作成した「譲(ゆずる)カード」


大阪大学人間科学研究科未来共創センター招聘教授で現役医師(循環器科専門医)の石蔵文信氏(64)が高齢者向けに作成した「集中治療を譲る意志カード(譲カード)」が話題を呼んでいる。表面には次のように記されている。
〈新型コロナウイルス感染症で人工呼吸器や人工肺などの高度治療を受けている時に機器が不足した場合には、私は若い人に高度医療を譲ります〉
「譲カード」には医療現場の負担を軽減する狙いがある。医療崩壊が起き“命を譲るか”の選択を迫られる事態になった場合、尊厳死や安楽死と違うのは、「自分の死に方を決める」だけでなく、それが「他人の生死」にも関わってくるということだ。患者がカードによって“若者だけではなく、医療従事者やエッセンシャルワーカーに医療を譲る”ことを明確に意思表示していれば、そのようなリスクを避けることもできる。


新型コロナ「集中治療を譲る意思カード」作成者に抗議します。


一方、こうした主張には、立憲民主党塩村あやか氏に代表される、『新型コロナ「集中治療を譲る意思カード」作成者に抗議します』というような声は当然出てくる。
新型コロナウイルス感染症と世界の人々が闘う中で、「事前の意思表示で人工呼吸器をつけない選択を市民に呼び掛ける」という施策や「年齢や持病、障害の有無で医療の線引きを行う」ことは断じて容認ない。こうした判断基準が独り歩きして「価値なきいのちは切り捨てる」という風潮が広がることになる。「年齢や持病、障害の有無で医療の線引きを行う」ことは、こうした判断基準が独り歩きして「生命の選択」や「適者生存」など、「価値なきいのちは切り捨てるという発想につながっていくという主張である。
もちろん、医療行政が人工呼吸器を含む医療資源を、必要な人々に届けるための体制整備に全力を挙げることは重要であることには違いない。

だが、それとこれとは、問題の位相が全く異なる。新型コロナウイルスの登場によって、人の生・老・病・死の状況がかわり、終末医療における尊厳死の問題を理解し、生命の質と生命の尊厳の対立について考えなければならないフェイズに突入した。


トロッコ問題ー誰かが生命の価値を判断してしまうという「命の選別思想」


「命の選別思想」として代表的な問題はトロッコ問題である。トロッコ問題とは「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは良いこと か。」という倫理の思考実験だ。暴走した列車が走ってきていて、自分が線路の分岐器のそ ばに立っている。なにもしなければ大勢のひとを見殺しにしてしまうが、レバーを引いた ら数人の人を選択して殺してしまうことになる。数人を故意に死なせるべきか、それとも、 もっと多くの人が死ぬのを黙って見ているべきかを短時間に決めなければならないときどう判断すべきかが問われている。

多くの人間を助けるべきという考えは合理的で道徳的な判断である。しかし、一方で故意に数人を死なせるという判断は判断者を神の位置に置き、生殺与奪を決定してしまうことになるのだ。また、判断者には行動を起こすか起こさないか自分で決定できてしまうので、どちらの判断を行うにしても、自らの責任に責任を負わなくてはならないのである。 トリアージも全体のこと考え優先度判定者が多くの患者を救い少数の重症者を見捨てるか 否か、トロッコ問題と同じ倫理的課題が浮かび上がってきてしまうのである。


スウェーデンにおける「集団の安全」


「一人ひとりの患者に最善をつくす医療」を継続できない可能性が生じている原因は、政府が「経済性、効率性」を優先して救急医療・集中医療の病床数や公衆衛生の拠点である「保健所」を極端に削減するなどの医療行政を行ってきた故といわざるを得ない。

何より、私たちが今なすべきことは、人工呼吸器を含む医療資源を、必要な人々に届けるための体制整備に全力を挙げることである。新型コロナウイルス感染症の重症化率に見合った人工呼吸器の必要台数の生産、そして、医療機器や装具の不足数と充足数を随時公表し可視化を図るべきである。

不幸にして「一人ひとりの患者に最善をつくす医療から、できるだけ多くの生命を助ける医療への転換が迫られる」事態に至ったとしても、高齢である、持病がある、心身に障害があるといったことをいのちの線引きの基準にするべきではない。医療者に命の選別を強いる事態を起こさないためにも、政府が必要な医療機器や医療用防護具を整備することが至上命題なのである。

新型コロナウイルスによって「いのち」の選択を医師がしなければならないような状況、いわゆる「医療崩壊」が起らないように全力をもって取組み、第3波に備えるというのは確かに正論だが、結局何もしないということの裏返しなのである。

イタリアやスペインでは急激な患者の増加で、必要とする患者全てに人工呼吸器などが行き渡らず、生存する可能性が高い患者の治療を優先すべきか選択を迫られた医師らが少なくなかった。日本でも第一波感染状況においては、患者が多い東京などで一時、最も重篤な患者に使う人工心肺装置「ECMO(エクモ)」の不足が懸念された。石蔵教授は「新型コロナの治療で過度な負担がかかる医師らに、エクモなどが足りないからといって治療をするかどうかを判断させるのはあまりに酷だ」と語る。


感染医療と通常医療の目的の違い


感染医療制度の基本にあるのは数字である。感染医療はすべての患者を救うという考えを捨て、多少の犠牲を出してでも多くの患者を助けるという全体主義的な制度であり、最大多数の最大幸福を求める制度でもある。

救急医療と災害医療では医療環境が異なるので施す医療の目的も大きく変わってくる。 医療倫理学の四原則のうちの配分的正義原則(justice)とトリアージは大きく関わってい る。この正義原則は医師も患者もこの未知のウイルスの感染社会の中で生きているということを忘れてはならない。

トリアージは、患者個人の人権というものよりも治療の効率といった全体主義的な問題を考慮する制度であるため「すべての患者を救う」という思想から大きく逸脱した制度なのである。大地震などの災害時、非常時には傷病者が大発生し、かつ医療機関の機能が制限されてしまう。そこで、災害時の制約された条件下で医療を施すことのできない患者が発生してしまうのが明らかであるときにこそトリアージは是認されるものなのである。医療もこのような限られた資源の中で行われる場合、正義にかなった公正な資源の配分を考慮しなくてはならないのだ。トリアージの考え方は、この正義を実現するための原則を表現したものなのである

たとえば大災害の被災者の治療にあたるとき経済能力や社会的地位が高かったとしても それを理由に優先度判定を行うことはこの正義原則に反してしまう。社会的地位などを問わず治療を今すぐにすれば助かる軽症者を優先し、重症者を後回しにしなくてはいけないのだ。災害医療の目的は、集団にとっての最大限の医療を提供することであるのだ。



今こそ『トリアージ』の問題を本格的に議論していくべき


「トリアージとは、非常事態の際に、明らかに助かる可能性が低い人、軽症の人、という形で患者を重症度によっていくつかの段階に分け、治療の優先順位を決めることである。2011年の東日本大震災の時にも注目された言葉で、この時には被災者本人の意思を問うことなくトリアージが行なわれたことに議論が起こった。

今回のコロナでも亡くなっている人の大半は高齢者で、80歳を超える人が重症化したら亡くなる可能性が高い。
とはいえ、医師側の判断で“誰を助けるか”を決めたり、高齢の患者につけられた人工呼吸器や人工心肺を外すのは2011年のときと同じように議論や批判が起こるだけでなく、あとになって医師が遺族から訴えられるリスクもある。

そんなときに年齢などがトリアージの基準になっていたり、患者がカードによって“若者に医療を譲る”ことを明確に意思表示していれば、そのようなリスクを避けることもできる。未知のウイルスは、私たちに「命の順序」について責任と覚悟を問うているのかもしれないのである。

年齢や持病、障害の有無で医療の線引きを行うことは、こうした判断基準が独り歩きして「命の選択」や「適者生存」など、価値なき命は切り捨てるという発想につながっていくという主張は問題のすり替えである。
新型コロナは、人類社会に対して、「命の順序」についての根源的な命題を突きつけている。


この国のフルカバレッジという病理と人間の「順序」を恐れる者たち


トリアージ現場においては、救命の可能性が低くなった患者から人工呼吸器を外し、救命可能性の高い別の患者へ付け替える「再配分」を許容し得る。また、リビングウイルやアドバンス・ディレクティブにより、患者が自ら人工呼吸器を外すことも許容すべきなのである。

もちろん、人工呼吸器の不足が起こらないようにすることが、何より重要な命題である。医療行政が人工呼吸器を含む医療資源を、必要な人々に届けるための体制整備に全力を挙げることは重要であることくらい誰でもわかっている。だったら、政府はつべこべ言わずに病床確保を実行すべきである。

医療崩壊という最悪の事態を避けるためには、ICU対象治療全体にキャップ(上限)をかけ、その中で救える命を最大限救っていくという、トリアージ生存可能性優先治療を許容しなければならない。この国の「年齢や持病、障害の有無で医療の線引きを行う」ことは、こうした判断基準が独り歩きして「生命の選択」や「適者生存」など、「価値なきいのちは切り捨てる発想につながっていく」という何の葛藤も感じ取れないきれいごとのフルカバレッジの正論には辟易する。

トリアージにおける現場の医師がヘラヘラしながら「命の選別」を行なっていると思っているのか。そもそも、この国の政治が全く機能しないから「命の選別」を行わなければならないのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?