マンガは読んでもらうために 『ジョジョ』と俺

 作者と同じ誕生日という縁で、俺は今、荒木飛呂彦作のマンガ『ジョジョの奇妙な冒険』を読み進めている。
 4部と5部はアニメで見て、それ以外の部は公式のアプリで読んでいる。今は7部の1/3あたりを読んでいる途中だ。
 このマンガは本当に面白い。戦闘の緊迫感、機転を生かして状況を切り抜ける爽快感、「スタンド」という能力、魅力的なキャラクター、独特のファッションや擬音もよく話題になる。何食ったら思いつくんだろアレ。まぁとにかく面白いのだ。ちなみに俺は今7部に思考を支配されている。TLに発狂ツイートしかねぇ。


 だが、最近考えた事がある。
 たぶん俺は、荒木先生と価値観がぜんぜん合わない。

 全体の物語としては物凄く楽しめるのだが、所々、それもかなり物語の核となる場面で引っ掛かりを覚える。ローリング・ストーンズや「運命の奴隷」という言葉が指すもの、6部の終わり方、「DIO」がなぜ生まれついての「悪」なのか。全然納得できていない。重要な場面であればあるほど「何を言っているんだ……?」という反応になってしまう。
 またこれは単に途中だからだと思うが、7部の「飢え」とか「納得」、「男の価値」とかも、なんとなく言いたいことは分かる、気がするが、それを飲み込めるかは微妙なところだ。反発さえ覚えるかもしれない(ジョニィがリンゴォの事を「どうかしてる」と思ったときは心底安心してしまった。すぐ分からなくてもいいのか……)。


 単純に理解力の問題かとも思うし、この記事を書いていたらどんどん不安になってきた。
 だが、それ以上に「自分の内にその答えに近しいものがないから」というのがあるように感じる。
 たぶん荒木先生と俺とでは「運命」や「悪」といった、本当に物語、ひいては『ジョジョ』というシリーズの根底に関わる概念の認識が全然違うのだ。
 俺は「偶然」はともかく「運命」はさほど信じていないし、生まれついての悪だろうと何だろうと、結局何をしたかが重要であって、それだけを見た方がいいと思っている(そうでないと自分のような「正しく生まれてこられなかった」人間はどうしようもない、という考えがあるのかもしれない)。
 とにかく、壁を登りたくとも掴める突起がないのではどうしようもない。きっと、荒木先生と俺は全然違う人間なのだ。当たり前だけれど。

 それらに共感はできなくとも、どうにか理解し納得するために、俺はずっと考えている。
 俺はまだ20年程度しか生きていない若造だ。でも、それでも、この作品を「良い」と思ったからには、知りたい。ちゃんと理解したうえで判断を下したい。この作品はどういうつもりで描かれたのか。何を伝えたいのか。
 そしてふと思った。

 俺はこの漫画を通して、一人の人間の人生観を、価値観を、ぶつけられているのか。

 俺は殴られたような思いがした。

 「教えてあげよう」とご高説を垂れるのではなく、酔っ払ってくだを巻くのでもなく。
 ただその思いを物語に乗せて、全力で、ぶつけられているのか。

 今の今まで気づいていなかった。

 そりゃ簡単に答えが出るものじゃないし、受け入れられるものでもない。あたりまえだ、一人の人間の生き様なんだから。

 俺は今まで何を「読んでいた」んだ。何も見ていないのと同じではないか。
 そして俺は、ある台詞を思い出した。


「ぼくは『読んでもらうため』にマンガを描いている!」

 第4部『ダイヤモンドは砕けない』に登場する漫画家、岸辺露伴の台詞だ(第55話「漫画家のうちへ遊びに行こう その③」、コミックス第34巻収録)。
 岸辺露伴は荒木先生の「理想のマンガ家」として描かれているらしいのだが、俺は彼の台詞が全く理解できなかった。

 俺は子供の頃から絵を描くことが好きだったが、それゆえ一層、理解できなかったのだ。俺はいつだって自分が描きたいから絵を描いてきたし、他人はどうでもよかった。まあ小学生の頃は「一番上手い子」だけがみんなの視界に入っている事に納得がいかなかったけれど、それでも自分が描きたいときに描きたいものを描くだけだった。
 それに、「評価なんか気にせず描くのが芸術家なんじゃないか」というような考えもなんとなくあった。だから、全然分からなかった。

 でも、そんな俺も一回だけ「読んでもらうため」にマンガを描いたことがある。他の作品の二次創作だが、同人誌を描いた。
 好きなキャラクターについて思っていることを、どうにか誰かに伝えたかった。
 どうしても読んでほしかったから、頑張って絵を描いたし、コマ割りや構図だっていつも以上に考えた。結局自分の力不足、準備不足で中途半端なものになってしまったけれど、それでも俺の「思い」に誰かが興味を持ち、読んでくれたことは、有難いというほかにないと思った。

 「漫画はそれ自体が目的な訳で、自分の思想を広めるための道具にされるのは嫌だ」
 以前、こうも思っていた。

 違うのだ。もちろん、漫画をただの「道具」として利用する者はいるだろう。
 でも、この場合はそうではなくて、漫画を描くことと、思いを伝えることは同じことなのだ。どちらが主というのではなく、まったく同じなのだ。


 そういうことなのだろうか。


 そういうことかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、俺はそう受け取った。


 まあつまり言いたいことは、

「作品を通して作者と殴り合える(と思える)のはとても楽しいし、そういう作品を作ってくれる人がいるってのは嬉しいことだな」

ということである。

 「善悪」や「生死」、「生きる意味」に関わる話はみんな難しがるし、人やタイミングにとってはとてもセンシティブな問題になるから、あまり話したがらない。これは俺の経験に基づく話だ。
 だが、マンガを通すことで人間は「作者」と「読者」という二人の、余計な情報が取り払われた存在になる。
 その二人しかいないまっさらな荒野で、「俺の答えはこれだ」「お前はどう思う」と殴り合うことで、俺は何も知らない、でも確かに作品の向こうにいる人間と、語り合うことが出来る。


 それはとても、素敵なことだと思う。


 ではこの文章は「読んでもらうため」に書いているかと言われると、そういう訳でもない。自分の考えをまとめておきたいというのが一番のような気がする。

 でも、それでいいと思う。俺は荒木先生にも岸辺露伴にもなれないし、なるつもりもない。
 それにもし、「読んでもらいたい」と思う何かがあるときは、きっと俺は、やっぱり絵を描くのだろう。

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