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Heart Cocktail @ とみなが4

とみなが40周年感謝の会
2024年3月5(火)から8日(金)迄勤務しています。
午後6時から11時
おひとり¥4,000飲み放題

とみなが40周年に寄せて
富永京子さんの個人史パート2

慶応大学仏文科の教授
フランス文学者の白井浩司氏から
あなたに良い仕事があるからと
ある日京子さんが引き合わされたのは
『季刊藝術』という雑誌の編集長だった。

編集長の古山高麗雄氏との面接は
昭和45年の暮れ
その年11月25日
三島由紀夫氏自決事件の直後で
面接ではその時事についても
尋ねられたという。

結果すぐに働くことに決まり、
1970年、昭和45年から54年迄の9年間
京子さんは『季刊藝術』編集員として勤務。

1967年から1979年の12年間、
『季刊藝術』という雑誌自体は計50号発行。

音楽評論家の遠山一行氏
美術評論家高階秀爾氏
文芸評論家江藤淳氏
そして編集長として
古山高麗雄氏の4名
で創刊された同人誌『季刊藝術』は
音楽、絵画、文学などの
芸術評論研究文
発表のプラットフォームとして
当時の作家たちが皆書きたがる
憧れの雑誌であった。

編集長の古山高麗雄氏は当時
作家としても活動を始め芥川賞を受賞しており
執筆活動が多忙を極め
編集職務の遂行ができなくなり
その実務を補う編集員として
京子さんが紹介されたわけであった。

とはいえ
京子さんは編集職務の経験はなく
レイアウトやページ割りといった
編集のイロハから
古山氏を東林間の自宅に訪ねて
教えを受けたそうだ。

江藤氏らに認められたい
作家がこぞって書きたがったという
同人誌の『季刊藝術』
しかし
原稿料広告料その他雑誌刊行はお金がかかる
経営は当初よりの赤字運営
常に遠山氏の持ち出しでつないできたが
12年間でその出版活動に幕をおろした。

その後京子さんは
別の出版社に勤務して
編集の仕事にたずさわるが
やがて兄の後輩で銀座の伝説的クラブ
“エスポワール”の経営者川辺るみ子さんを母に持つ
友人の川辺莞司氏から
クラブを立ち上げるので一緒にやろうと声がかかり
経験もないままに突然
クラブ “ドン・ジョバンニ”の
雇われマダムの役職を仰せつかる。

1年半から2年ほどのマダム勤務後
友人の川辺莞司氏の経営方針には
もう付き合っていられないと、
自分自身のネットワークを
すでに構築していた京子さんは
バーテンダーの早川元一さんをともない
1984年3月6日
自分のバー『とみなが』を開店した。


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