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西暦1965年、昭和40年生まれ

2023年令和5年現在

2019年に中国の武漢から始まって
またたく間に世界を席巻したパンデミック。

あの特定のウィルスの名前を文字にすること自体、
また、話の枕とすることにももはや食傷気味の感のある
2023年初夏の今、
日本でもその対応に特定の規制がなくなり
私たちはこのウィルスと共生する段階に入ったようだ。

世界中のすべての人々が同時に
同じ歴史のページに居たこの3年あまり、
この特殊な期間について総括をして
何が起きたのかを理解するのには
まだこの先かなりの時間を要するのだろう。

何か執行猶予中のようなこの期間は
立ち止まることを余儀なくされているために
ぼんやりとしていることが
公然とゆるされているような時間でもあった。

多くの人々もまたきっとそうであったように
私もこの期間、
散歩や整理整頓に楽器の練習など
無心になって没頭できる作業に
より多くの時間を費やしてきたと思う。

旧い写真を整理してデジタルに取り込んだり
東京中のあちこちを歩き廻ったり
昔の友人と再会して記憶のパズルの隙間を埋める
推理の作業に取り組んだり
また、インタビューと称して年配の友人たちから
往年の話を集め、文章を書き起こしたりもした。


今日、2023年5月半ばの神谷町の
駅前に完成しつつある新校舎の7階屋上部分、
後部に接続する高層ビルから飛び出た
バルコニーのような形のスペースで行われる
開校に先立つセレモニーで
子供達と一緒に演奏する和太鼓の前に立っている。

来賓の駐日大使と教育大臣の到着を待つ間
手持ち無沙汰に、頭上を旋回するセスナ機の音に空を見上げると
そこには五月晴れの青空がひろびろとあった。

四つの空 1945年昭和20年から1970年昭和45年

ふと、最近読んだ本の中で描かれた
四つの空の描写について思い出し始める。

ひとつは、集団と共に神輿を担ぎながら
肉体の苦難と精神の高揚の狭間で
陶然と見上げたという”揺れ動く初秋の青空“

もうひとつは、“1945年8月15日敗戦の夏
戦中戦後の境目のおびただしい夏草を
照らしていた苛烈な太陽。“ のあった空。

そしてもうひとつは1968年から1970年のあいだの
ある5月25日の初夏。
おそらくそれは富士学校滝ヶ原駐屯地において、
一日の訓練を終え
こころ良い疲労感と至上の幸福感、
に包まれて見上げたという
”夏と、白い雲と、課業終了のあとの空の、
何事かが終わったうつろな青と、木々の木漏れ日の輝きに
にじんでくる憂愁の色と、、、”
という空の描写。

そしてもうひとつは
青い空も雲も突き抜けて
高度4万フィート、12000mの高みから
地球を見下ろした空間の描写だった。
“F104の離陸は徹底的な離陸だった。
零戦が15分をかけて昇った一万フィートの上空へ
それはたった二分で昇るのだ。
三万五千フィートで、それはマッハ0.9の準音速サブソニックから、
かすかな振動を伴って、音速を超え、
マッハ1.15、マッハ1.2、マッハ1.3に至って
四万五千フィートの高度へ昇った。
沈みゆく太陽は下にあった。”

本のタイトルを
『告白』という。
2017年に出版された本で
三島由紀夫氏の未公開インタビュー全文が掲載。
インタビュアーはJohn Bester氏
1927年英国生まれの翻訳者
三島由紀夫氏の『太陽と鉄』を翻訳。

その
『太陽と鉄』
(告白と批評の中間形態
告白の夜と批評の昼との境の黄昏の領域と
三島さんご自身が表現されている)

もそのインタビュー全文後に掲載されている。

三島由紀夫さんという謎

あまりにも有名なこの作家について
その劇的な最期と
海外でも高く評価されている文学者という事実以外に
私はほとんど何も知らなかったのだが、

この執行猶予期間中の眠れないある夜に寝床でもって
iPadで何かを検索していた果てに
何故か、三島由紀夫氏と川端康成氏が
並んで談笑している写真に行き当たった。

三島氏が川端氏を師のように敬愛しておられ
おふたりに親しく交流があったという事実を知らなかったので
このスナップショットは、私には意外な組み合わせに思えた。

インターネット上に
掲載されている三島由紀夫氏の写真の
胸板の厚いスーツ姿で煙草を片手にした、
格好の良い美丈夫な姿にまず感心した。

外国でインタビュアーに臆せず自然に英語で応えている映像や、
1969年5月13日東京大学駒場キャンパス900番教室で
三島由紀夫対東大全共闘と題して行われた
保守と革新の公開討論会で
1000人の聴衆を前に
壇上に上がって、フェアでかつ人間味のある
余裕のある態度でもって
運動家の学生たちと意見の違いを超えて渡り合う映像などのほか

彼の没後を友人知人たちの証言で綴る
ドキュメンタリーにも行き当たり、
三島由紀夫氏のカリスマティックな姿に
こんな日本人がいたのかと改めて驚いた。

晩年の楯の会の有名な制服姿での写真など
三島由紀夫という名前には
エッジの効いた何かタブーの匂いのする思想家
という印象がつきまとい
昭和40年生まれの、特に文学に興味もなく育った私には、
何となくアンタッチャブルな気がして、
その作品をきちんと手に取って読んでみる気が起こらなかった。

何かに興味を持ち始めると
その興味の対象が向こうのほうからやってくる感じがする。
それは自分の意識がその対象を積極的に認識し始めて
自分の周りにそれを見つけやすくなっているからだろう。

ある日軽井沢のブックカフェで
その文学作品集の外枠にある
三島氏と川端氏の書簡集というのを
見つけてまずは気楽に購入してみた。

手紙が普通に意思疎通の手段だった頃
それにしても
筆まめにやりとりされた書簡のやりとりから
ふたりの関係性
とりわけ三島氏の川端氏に対する
開襟の態度と親愛の思いやりに
三島氏の人となりがあらわれていて興味深い。

その後ずいぶん間をおいて
静岡の博物館の売店で
『三島由紀夫のレター教室』
という何やら楽しげなタイトルに惹かれて
この単行本を買い求め
読み出したら面白くて
あっという間に読了してしまった。

これは昭和41年週刊誌『女性自身』に
9月26日号から翌昭和42年5月15日号まで
『三島由紀夫レター教室ー手紙の輪舞』として掲載され
その後1968年昭和43年に単行本として
新潮社から刊行された本の
復刻版ということらしかった。

架空の男女5人が繰り広げる
手紙のやりとりがそれぞれのパーソナリティを
あられもなく露呈しつつ
その物語の展開が
文通によってあきらかになってゆく。

この本で感心したのは
三島氏の女性心理に対する
正確な洞察力と
その登場人物のひとりが英語教師ということもあり
西洋流の社交に関する彼の理解と
英語に関する造詣の深さだった。

行ったり来たり
三島由紀夫氏のことを
オンラインでさらに調べてみたりするうち
凝縮していく私の興味は結局
彼の最期の行動について、
その動機は何かということだった。

なぜ彼がその行動を起こすに至ったか
の問いに応える書籍

レター教室読了が今年の早春のころで、
その後花の盛りの上田を旅する途中、
自転車で柳町のあたりを散歩していたら
奇妙な蒐集家の店に行き当たった。

80年代初頭アイドルの写真やレコードに雑誌
古本の並ぶやや偏執なおやじさんの店で
中山道の歴史と旧い観光雑誌の上田特集のほか
『三島由紀夫事件』
『告白』
『行動学入門』
を計5冊をしめて¥3500で交渉の上購入。

『三島由紀夫事件』は別冊宝島編集部の編とあり
1970年11月25日に起きた三島事件を
その発生から50年後の2020年に
発生の時系列に並べ
報道の現場、法医学者の視点、
楯の会メンバーの調書、
裁判官の供述などの
資料から読み解くというもの。

私がこの2冊の本
『三島由紀夫事件』
『告白』

実質的には
『太陽と鉄』
まで数えると3本の書籍を
同時に手に入れることができたのは幸運で、
私にとっての
三島由紀夫という謎に対する答えを
つまびらかにする材料が
偶然にも手元に揃った。

三島由紀夫さん自身が、『告白』に掲載の
インタビューの中でジョンベスター氏に語っている、

“僕にとっては、僕の小説よりも僕の行動の方が
わかりにくいんだという自信があるんです。”
続けて三島氏は
“わからない人はわからない。
それでよろしい。
それをわかりたい人は『太陽と鉄』を読んでくれ。
あれを読んでくれればわかるという気持ちですね。
僕はそれ以上、何も言わないんです。“

三島由紀夫氏の年譜と行動ついてのコラージュ

というわけで上掲の本を読んでもらえればそれはわかる、
ということなのだが。
かいつまんでそれを少し知りたいという人のために
というより
私がその知り得たことがらを
今一度要約して理解したい
という強い欲求のために
今ここにそれをコラージュのように
再構築してみたいと思う。

平岡公威さんは
西暦1925年大正14年東京の四谷で生まれた。

だから彼の年譜は
昭和の元号と共にある。

身体の弱い子供であった彼は
空想好きな幼少時代を
本に囲まれて成長し
早熟な知性の持ち主であった彼が
学校の”綴り方“の授業で
空想の出来事ばかり書くので
学校の先生からはいちばん悪い点を
付けられたと回想している。

学習院初等科に入学の6歳の時
短歌一首
俳句ニ句
が、学校の機関誌に掲載。
1938年昭和13年13歳の時初めての小説『酸模すかんぼう』
を書いて発表。

1941年昭和16年16歳『花ざかりの森』
を執筆した年、真珠湾攻撃により
日米開戦。

1945年昭和20年20歳の年、学徒動員で
群馬県太田町の中島飛行機小泉製作所の
総務部調査課文書係に配属。
業務作業のかたわら『中世』を執筆。
2月に入営通知の電報を受け取る。
遺書を墨書し遺髪に遺爪を残して
兵庫県富合村へ出立して入隊検査を受けるが
軍医より右肺湿潤の診断を下され即日帰郷。


三島由紀夫氏は『太陽と鉄』の中で
自分の精神を家屋と例えると
その肉体はその家屋を取り巻く果樹園のようであるといった。
ある時彼は思いついて、その“果樹園”を
せっせと耕し始めたという。
そして、その作業に使われたのは
“太陽“と“鉄”であったという。
”たえざる日光と、鉄の鋤鍬が、
私の農耕にもっとも大切なふたつの要素になった。
そして果樹園が徐々に実を結ぶにつれ、
肉体というものが私の思考の大きな部分を
占めるにいたった。“

三島由紀夫氏が30歳の頃から
ボディビルを始め
その後ボクシングや空手に剣道と
肉体の鍛錬に没頭して
胸囲の広い逞しい肉体を
作り上げて行ったことは
よく知られた事実である。


私の家はジャズの音楽家の一家で
大叔母は水島早苗という1909年明治42年生まれのジャズシンガー
そのつれあいは永田清という1921年大正10年生まれのピアニストで
二人は一時期四谷三丁目に
歌の稽古場兼酒場を経営していたことがあった。

その酒場にある夜三島由紀夫氏が現れて
永田清のピアノにあわせて
奇妙なダンスを踊っていたという。
その場に居合わせた
イラストレーターの和田誠氏の回想を
何かで読んでおどろいたことがある。


平岡公威氏は幼少時肉体的な弱さのゆえに
本に囲まれた部屋の中で育ち、
知性によって言葉がまず先に訪れて磨かれ
まだ肉体の存在しない状態で
その言葉による芸術活動をはじめ
その後ずっとあとになってから
鍛えられた肉体がそこへやってきた。

“言葉による芸術の本質は
言葉が現実を蝕むその腐食作用を利用して
作品を作るのである。
エッチングによる硝酸の腐食作用を利用するように。
言葉は現実を抽象化してわれわれの悟性へと繋ぐ媒体であるから
それによる現実の腐食作用は言葉自体をも腐食していく。”

彼はかつて彼自身が暗い坑(あな)とよんだ
知性と精神のみの部屋の中で、
潔癖症の彼が言葉の純潔性を保持するために、
言葉が現実に腐食されるのを避けるため、
言葉という媒体を通して現実に出会うことを
できるだけ避けて
その芸術活動をおこなってきたという。
一方その反作用として
言葉の全く関与しない領域にのみ現実および肉体の存在を
公然と認めるようになったという。

かくして現実と肉体は彼にとって同義語となり
それは彼にとって
フェティッシュな興味の対象となったという。

“つまり行動とは、
はっきり目に見えるものだけにわからない。
文学というものは抽象的なものですから、
言葉という抽象的なミディアムを使って
人が理解するようにできているんですね。
ですけど、行動というのは、
こういうコーヒーのポットみたいなものですね。
これはわからないです。
コーヒーポットが「私はコーヒーポットでございます」
と言うわけがない。黙っていますね。
僕はそういうものだと思うんですね。”


『太陽と鉄』よりの抜粋


“近代生活に於いてほとんど不要になった筋肉群は、
まだわれわれ男の肉体の主要な構成要素であるが、
その非実用性は明らかで、
大多数のプラクティカルな人々にとって
古典教養が必要でないように、
隆々たる筋肉は必要でない。
筋肉は次第次第に、古代ギリシア語のようなものに
なっていた。
その死語を蘇らすには、鉄による教養が要り、
その死の沈黙をいきいきとした
饒舌に変えるには、
鉄の助力が要るのだった。”

“私にとっては肉体よりも先に言葉が来たのであるから、
果敢、冷静、剛毅などの、
言語が呼び起こす諸徳性の表象は、
どうしても肉体的表象として現れねばならず、
そのためには自分の上に、ひとつの教養形成として、
そのような肉体的特性を賦与すれば
よかったのである。“

”さらに私には、
そうした古典的形成の果てに、
浪漫的企画がひそんでいた。 
すでに少年時代から私の裡(うち)に底流していた
浪漫主義的衝動は、
一つの古典的完成の破壊としてのみ意味があったが、
それは全曲のさまざまな主題を含んだ序曲のように
私の中で用意され、わたしが何一つ得ぬうちから、
決定論的な構図を描いていた。

すなわち私は、死への浪漫的衝動を深く抱きながら、
その器として、厳格に古典的な肉体を要求し、
ふしぎな運命感から、私の死への浪漫的衝動が
実現の機会を持たなかったのは、実に簡単な理由、
つまり肉体的条件が不備のためだったと信じていた。
浪漫主義的な悲壮な死のためには、
強い彫刻的な筋肉が必須のものであり、
もし柔弱な贅肉が死に直面するならば、
そこには滑稽なそぐわなさがあるばかりだと思われた。

十八歳のとき、私は夭折にあこがれながら、
自分が夭折にふさわしくないことを感じていた。
なぜなら私はドラマティックな死にふさわしい筋肉を欠いていたからである。
そして私を戦後へ生きのびさせたものが、
実にこのそぐわなさにあったということは、
私の浪漫的な矜りを深く傷つけた。“

”あらゆる行動の技術が、修練の反復によって
無意識界を染めなしたあとでなくては、
なんら効力を発揮しないということは、
誰しも経験することであるが、
私の興味の持ち方は、これとは多少ちがっていた。
すなわち一方では、肉体=力=行動の線上に、
私の意識の純粋実験の意欲が賭けられており、
一方では、染めなされた無意識の反射作用によって
肉体が最高度の技術を発揮する瞬間に、
私の肉体の純粋実験の情熱が賭けられており、
この相反する二つの賭けの合致する一点、
つまり意識の絶対値と肉体の絶対値がぴったりとつながりあう
接合点のみが、私にとって真に魅惑的なものだったからである。“

”日常生活に於いては、
男は決して美に関わらないように注意深く社会的な
監視が行われており、男の肉体美はただそれだけでは、
無媒介の客体化と見做されて賎しまれ・・・“
”男性には次のような、美の厳密な法則が課せられている。
すなわち、男とはふだんは自己の客体化を絶対に容認しないものであって、
最高の行動を通してのみ客体化され得るが、それはおそらく死の瞬間であり、
実際に見られなくても「見られる」擬制が許され、
客体としての美が許されるのはこの瞬間だけなのである。“

”さて、私は想像力の淵源が死にあることを発見した。
・・・私がその想像力、少年時代このかた私を
たえず苦しめてきた想像力を逆用して、それを転化し、
逆襲の武器に使おうと考えはじめたことは自然であろう。“
”ずっとあとになって、私はこのもっともデカダンな
少年の心理生活が、もし幸いにして力と戦いの意志の裏付けを得るならば、
それがそのまま、武士の生活の格好な類推(アナロジイ)を
成立させることに気づいた。
それはふしぎな、めまいのするような発見だった。”
“そのためには、しかし、肉体と力と戦いの意志と
戦いの技術が養われねばならず、その養成を、
むかし想像力を養ったのと同じ手口でやればよかった。
それというのも、想像力も剣も、死への親近が養う技術である点では
同じだったからである。しかも、この二つのものは、
共に鋭くなればなるほど、自分を滅ぼす方向へ向かうような技術なのであった。”

“私が幸福と呼ぶところのものは、もしかしたら、
人が危機と呼ぶところのものと同じ地点にあるのかもしれない。”

“見ることと存在することとを同一化しようとすれば、
自意識の性格をなるたけ求心的なものにすることが有利である。
自意識の目をひたすら内面と自我へ向けさせ、
自意識をして、存在の形を忘れさせてしまえば、
人はアミエルの日記の「私」のように、
しかと存在することができる。
しかしいわばそれは、芯が外から丸見えになった
透明な林檎のような奇怪な存在であり、
その場合の存在の保証をなすものはただ言葉だけである。
・・・そこで林檎の中心で、果肉に閉じ込められた芯は、
蒼白な闇に盲(めし)い、身を慄(ふる)わせて焦燥し、
自分がまっとうな林檎であることを
なんとかわが目で確かめたいと望んでいる。
林檎はたしかに存在している筈であるが、
芯にとっては、まだその存在は不十分に思われ、
言葉がそれを保証しないならば、
目が保証するほかはないと思っている。
事実芯にとって確実な存在様態とは、
存在し、且、見ることなのだ。
しかしこの矛盾を解決する方法は一つしかない。
外からナイフが深く入れられて、林檎が割かれ、
芯が光の中に、すなわち半分に切られて
ころがった林檎の表皮の同等に亨ける光の中に、
さらされることなのだ。
そのとき、果して、
林檎は一個の林檎として存在しつづけることができるだろうか。
すでに切られた林檎の存在は断片に堕し、林檎の芯は、
見るために存在を犠牲に供したのである。”


三島由紀夫さんという存在の意味と
昭和40年の関係性

私は西暦1965年昭和40年生まれなので
すべて西暦と元号の換算を
自分の生年に引き寄せて考える。
今もし昭和だったら現在は昭和98年というふうに。

今58歳の私は戦争について
また戦時中についての情報を
身内や上の世代の人たちとの日常の会話の中から
また文学や映画といったあらゆるカルチャー
から受け取って育ったが
ずいぶんと自分が無知なまま
大人になっていることに気がついた。

三島由紀夫さんとは逆に
今私がしていることは
”肉体しか持たなかった人間が
青春の終わりに臨んで、
しゃにむに知的教養を身につけようとし始める“
といった種類の衝動だろうか。

今年還暦を迎える昭和38年生まれあたりの
世代の当時の若者たちを
かつて新人類と呼び旧世代の人たちとの
感覚の相違を揶揄したのもいまは昔。

昭和40年生まれの私たちの世代は
戦後世代というくくりにあって
熱情的な時代の直後にやってきた。
経済高度成長期と呼ばれる時代に
それまでの国体思想から180度の
変換を強いられた世代の大人たち。

そして彼らの子どもたちの世代の
醒めてしらけた態度で旧世代への反抗を示すという
若者特有のシニカルで普遍的な行動規範は、
国粋主義の精神から急展開の、
経済利益追従第一主義へのレールへの
ポイント変更のどさくさ紛れにも
都合が良かったのではないかと思う。

能動的で熱情的な行動が
格好わるいという認識で
無気力に生きるという態度は
全体の中での自己の無力感を隠蔽するのに
ちょうどよいポーズでもあっただろう。

私の父は昭和2年生まれであったから
世代的に三島由紀夫さんと近い。

父はエディ岩田というジャズドラマーで、
アカデミックな知性とは対極の世界に存在した
直感的なタイプのミュージシャンだった。

また、三島由紀夫さんの二人のお子さんたちが
私と同世代であることにも親近感を持った。

最初に何の予備知識もなく
ドキュメンタリーをオンラインで視聴した時、
彼のあの最期の自決は劇作家でもあった彼の
一種の作品ではなかったのかという気がしたが、
いろいろと調べるうち
そういう見解で彼の最期をとらえている人々も
一定数いるらしいことを知った。

審美の感覚の鋭く厳しい
ストイックな感受性に
潔癖な矜持の性分。
他にもうひとつ
あきらかに1925年大正14年生まれという
戦争を経験した世代という時代背景が
三島由紀夫という芸術家を生み出したのだと思う。

世界大戦というのは異常な状況であった筈で、
それを体験して生き残った人たちの
ある公約数的なセンチメントのひとつに
大義のもとで死んでいった同胞に対して
自分が生き残ってしまったことに対する遣る瀬なさ
という心理があるのを聞く。

そして戦争のない平時の日常というのは
貴重な状態である筈だが、
戦争を体験した世代のひとたちがそれを痛感しながら
戦時中の生死をかけた人間の
人生観とその抒情をなつかしみ
戦後の日本の浅薄な精神性を嘆くのを聞く。


米国のリベラルな政治番組で
現在の日本の地政的な立場に関する
何気ないコメントから
日本が前の戦争での行動から
その軌道をただされた国家の
ひとつであることを今さらながら愕然と
認識させられたことがあった。

私は集団の集約的な敗戦の記憶が
自覚なく
自分にも刷り込まれていることに
あらためて驚愕する。
そして矜れるところの少ない
国家の一員という認識に着地する。

だからあの
どこか劇場イリュージョン的で美丈夫な
三島由紀夫氏の姿に
その矜りのよすがを
探しているのかもしれない。

知性の高い、国際標準的な
世界に通用するマナーを身につけていた
三島由紀夫氏は
現代の日本において考えても
比類のない紳士であり得たと思われる。

しかしながら彼の説く
生き方の世界観についての文章の中には、
共に人間として生きている
同胞の女性の存在についての供述は
全く欠落している。

日常生活の三島由紀夫

”子供が可愛くなつてくると、男子として、一か八かの決断を下し、
命を捨ててかからねばならぬときに、
その決断が鈍り、臆病風を吹かせ、
卑怯未練な振舞をするやうになるのではないかといふ恐怖がある。
そこまで行かなくても、男が自分の主義を守るために、
あらゆる妥協を排さねばならぬとき、子供可愛さのために、
妥協を余儀なくされることがあるのではないか、といふ恐怖がある。(中略)
静かな道の外灯のあかりに、影法師が出た。
これを見て、私はギョッとした。家人と私との間に、
ちやんと両方から手を引かれた小さな影法師が歩いてゐる。(中略)
動物的必然とはいひながら、正に人間と人生のふしぎである。(中略)
私は、何ともいへぬ重圧的な感動に押しひしがれ、
もう観念しなければならぬと思つた。“
— 三島由紀夫『子供について』

“三島と楯の会候補生の陸上自衛隊体験入隊中に助教官を務めた江河弘喜は、
自分の初めての子供(女児)の名付けを三島に依頼した。
候補名を3つ挙げた手紙の中で三島は自身の経験をふまえて、
「どうしても可愛がりすぎてしまふ第一子は、女のお児さんがよろしく」
と祝福しながら、
「人生最初に得る我児は、何ものにも代へがたく、
一挙手一投足が驚きであり㐂びであり、
……天の啓示の如きものを感じますね」
と綴って、ピンクと水色の産着2着を江河に贈ったという。“


”1970年(昭和45年)11月25日の自決の日、
三島は楯の会の4名と車で市ヶ谷駐屯地へ向かう途中、
学習院初等科校舎近くの手前に一時停車した際に、
「わが母校の前を通るわけか。俺の子供も現在この時間に
ここに来て授業をうけている最中なんだよ」
と、紀子のことを気にかけていたという。“

上掲3点Wikipediaより。


彼の父親平岡梓が綴った『倅・三島由紀夫』
という本の中に
自決の日の前夜に彼が
離れの部屋へ両親を訪ねたと
いうくだりがあり、母親と

“「うん僕は今夜はすっかり疲れてしまった、
おかあさん、早く寝たいんだよ。」

「早くお休みなさい。疲れていそうね。仕事をしすぎるからよ。
そんな時には横になるのが何よりよ。」

「うん、そうする。お休みなさい。」

という極めて簡単な会話があった。”

とされている。


2023年令和5年5月12日「着到」

ようやくに来賓である英国教育大臣 ジリアン・キーガン氏と
駐日英国大使ジュリア・ロングボトム氏が登場。

「日本にももっと女性の政治家に活躍してもらいたいね。」
と嬉しそうに英国の女性大臣と大使を迎える
私たちのエネルギーあふれる太鼓の先生は五十嵐智子さん。
伴侶のシェリーさんと共にあって
雅太鼓スクールを運営して26年。

本日来賓を迎え新校舎開校の祝曲は『着到』
着くに到るというこのタイトルが気に入っている。
Arraival
本日のセレモニーにふさわしい演目だ。

横尾忠則展覧会情報

銀座でばったりゆきあった展覧会、なんと無料!
三島由紀夫氏と親交のあった横尾忠則氏の
“銀座番外地”見応えあります。
三島由紀夫関連作品も展示。

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