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ちょっと妄想して。

以前は学校が嫌い=社会で活躍という構図があったように思います。誰かの言われた通りにやってたまるかな価値観。学校とは違うルールで社会は出来ている。例えが微妙と思いますが、宮沢りえの「ぼくらの七日間戦争」とか、俺たちは腐ったみかんじゃないの「金八先生(第二期)」など、学校からはみ出している子らのパワーをちょっと魅力的に描いた映画やドラマもありました。でも、いつ頃からか、そんなパワーが少なくなったように感じます。先生に反抗するとか、やり方を教わらないなんて馬鹿。ただ自分が年齢が上がったから、眉をひそめていた年代の大人になったからなのかもしれません。そこはわかりませんが、情報共有がすごくて、失敗が瞬時に大きく共有されること、大人の方にも余裕がなく、やらかしをとことん追い詰めて、絶対に許さない。その感じは以前よりも強烈になったようには思います。

日本の子どもは全員が学校に行くことになっています。そして、指導要領というのが決まっていて、検定教科書にしたがって勉強する内容はもちろん、こういう風に評価しなさいまでが決まっています。日本の常識は学校の授業(指導要領)が決めているといっても過言ではないように思います。世界でも類を見ないほどのハイレベルな無償教育なのですが、そこから外れるとちょっと事情が変わってきます。実際に評価されることを考えると、一回落ちこぼれると流れに戻ることがとてもむつかしい。中1の方程式でつまづいた子はそのままなら、中2の連立方程式で必ずつまづきます。そして、中学を出ても中学数学が苦手だったら、高校数学が出来ることはまずありません。英語も同じです。中1で英語が苦手だった子はやっぱり中2でも英語ができません。そして、学校時代は落ちこぼれだったみたいな人は先生になりません。きっと、学校大嫌いみたいな人は学校に戻りたくないのかもしれません。

そうすると、学校が合わない子はどんどん学校に居ずらくなるように思いますし、そのことに対抗するパワーなど認められることもなく、ある種の透明人間化が起こるのかもしれません。ほんとに先生も大変ですもの。

本人の背負っている何かを信じない人もいるでしょうけど、ボク自身は精神疾患を抱えているので、これは生まれる前に決まってたんじゃないの?って思うことがあります。災害や大病、コロナ禍社会、貧困問題、ちょっと想像するだけでも、これは試練だと思えることがいろいろと浮かびます。ほんとは誰でも自分の宿命(試練)みたいなものを背負っているのかもしれません。

仮にそれぞれに背負っているものが違うとしたら、周りの様子をみて同じように生きようとすることで、本人が生きやすくなることは少ないでしょう。これは全員が大学進学という同じ頂上を目指して、そのうえで個性を消したリクルートスーツで新卒一括採用で就職を目指す。同じルールで同じルートで競争する。それはしんどいですよねってことでもいいと思います。それぞれに違う存在ですから、自分の手札をしっかりみて、どうやって楽しく過ごすかを考えないとジリ貧になってきます。まずは、お金をどうやって稼ぐのかを考えないといけないですが、なかなか義務教育にお金を注ぐことはむつかしくなりそうじゃないかと思います。だから、これまでのような進学塾ではなく、補習塾で足し算の繰り上がりや繰り下がり、割り算のひっ算などから面倒をみられる中学生向けの塾もあってもいいなと思います。なんだったら、太鼓をたたいて踊りながら、子どもらとコミュニケーションをとる授業(イギリスのことがどうも気になるといいますか、例えが微妙ですけど、ブレア首相の頃にそんなのをやっていましたが)もありなのかもしれません。だから、tictokとかに60秒とかでどんどん勉強教えてくれる動画があったりして、学校が嫌いで、行きたくなくて、まじめにやってられませんみたいな子を対象にする感じ? 言っていても現実感がありませんが、戸塚ヨットスクールが現実にあったわけですから、そんなのをちょっと妄想をしてみました。

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