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責任を考える

精神疾患をはっきり抱えてからは何かをやるというとき、必ず躊躇するようになりました。迷わず一歩踏み出していたことも、立ち止まり迷い、気がついたら後ろに戻っているなんてことが多いです。いろいろな責任を考えるようになったからなのか。理由ははっきりわかりませんが、ハンデを背負っているように感じます。家庭とか、子どもとかの頼られる責任とは違い、ホントにただただ精神疾患なんてなかったらいいのにと思うわけです。なんで、こんなおかしなことになったのか。そっからは妄想の時間です。大部分は自分を責めたり、反省したりです。でも、だんだん納得できない気持ちがムクムクと沸き上がってくるのです。そして、それは消えることがありません。とても根源的なものだと感じます。
精神疾患は本人の気質だったり、性格だったり、身体の方ではなく、考え方(観念)みたいなところに原因があるのだそうです。精神は脳にあるように思いますけど、精神疾患の患者の脳をどれだけ調べても、脳には異常がないのだと言います。つまり、身体をどれだけ調べても、治すべき原因(悪いところ)はまったくないらしいのです。え、でも、原因がないってどういうこと? コロナなら、コロナウィルスだし、癌なら、癌細胞だし、なんらかの原因があるんでしょと思いますが、フロイトは性衝動を隠していることがヒステリーの原因だみたいなことを言い、ユングは未開の原住民みたいな人のことを研究して、普遍的無意識のような、人のこころが実はつながっている、そういう部分があることをいったらしいとか、いくつかの本でちょこっと読みました。そんなには詳しく知らないので、そこを自分で深めることはできませんが、もっとそういうことを研究してくれよ。寝れないのは困るから眠れる薬は欲しいけど、ただボーっとする薬(生殖機能も減っちゃうときいた)より、こころの方の見えないところの原因をもっと研究してくれよと部屋で一人で気炎を吐くのです。誰も聞いてくれないし、どうなるわけでもないわけで、だんだん空しくなり、やっぱりこの中でどうやったらうまくいくかをやってみたいなと思うのです。

偉い先生もなにも、一般的に音源のないコエが聞こえるなんて、日本では絶対にありえないとされます。実際に聞こえる体験があったとしても、そういうことを言う人自体を完全に頭が狂っているというテンションで認めない。そういう空気は日本ではずっと変わらないでしょう。霊的な現象を語ってお金儲けする人たちへの嫌悪感が背後にあるのかもしれません。

そういう現象が否定される理由のひとつにはガセが多いということがあるようです。現象を否定することはできないかもしれないけど、ほとんどはガセじゃないか。科学的でないことはコントロールできない。つまり計算できない。この世の計算できないことは、ただの偶然という。偶然とはたまたまのこと、あるかもしれないし、ないかもしれないことだ。仮に本当に奇跡のようなことがあったとしても、かなりの回数失敗だったら、それを当てにできるように言うのは詐欺のようなものだ。そういう理屈があるのではないでしょうか。たしかにそれを便利に利用してお金儲けはできないでしょう。でも、1000回ガセだったとしても、切実な体験を否定する理由にはならないです。

本人のこころの体験は恋愛感情にも似ていて、その人にしかわかりません。恋愛、(最近では推しへの愛情など)はこういう風にするとこうなるみたいな科学法則はありません。逆に同じことはまったく起こらないとも言えます。常識の範囲であっても、とくに心のことは科学で説明できないことがたくさんあります。じゃ説明できないから恋愛体験はないのでしょうか。その体験はまやかしで、ウソで信じるに足らないのでしょうか。たしかにヒアリングヴォイシズというヨーロッパで1980年代に起こってきた運動が、日本で一般に受け入れられることは期待できないかもしれません。それでも、自分なりの記録をとれば、その記録が自分自身の今後を助けるかもしれないとはいえます。いわゆる分裂病、統合失調症と診断されて20年以上を過ごしてきたのですが、霊のコエの中でどう過ごすのか? は本人にとっては切実な問題です。一般には流通しないけど、ボクのところにいる幻聴さん(ボイス)は自己同一性をもっています。だから、自分には繰り返し繰り返し、同じようなことが起こります。(いいことも含め)ちょうど夫婦のもめごと(地獄)は無限にあるんですが、無限にいろいろな揉めごとにはならず、毎回、同じことで揉めるみたいなことだと思います。自分の考え方の癖も大きな原因になるので、自分なりの心の工夫(コツ)があるように思ったり、苦しいときに救いになった言葉とか、それは映画やドラマの台詞とか、講演やエッセイの話し言葉なので、そんなにすごいことは書けないでしょうが、そういうのを自伝のようなフィクソンで自分の半生(反省)を成仏させられたら。斎藤一人さんの講演の音声で、奇跡の起こし方みたいな話があるのですが、ちょうど、そこから着想したフィクソンがこころにずっとあります。あくまでも妄想ですから、誤解されることが少ないカタチで書かないといけないですが、そもそも今の体験を誰かに伝えることを考えると、現在の全力の体験がこの先に活きるように感じられ、自分自身が先をみるように変わることもあるようです。自分の先を考えて責任を考えるようになるのはいいことのような気がします。それはきっと間違いがないのでしょう。

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