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絶体絶命の窮地に開く心の眼~自作曲"Blessing of a Child"に寄せて~

「辛いという字がある。もう少しで幸せになれそうな気がする」
――星野富弘氏

世間では「意志あるところに道あり」とか「勇気ある所に希望あり」と言いますが、人生という旅路の途上では、どう頑張っても、どんなに努力しても、道が一向に開かないように見える暗やみの時というのが存在し得ると私は思います。

星野富弘さんというクリスチャンがいらっしゃいました。
星野さんは口の先で絵筆をくわえて詩と花の絵をお描きになることで、多くの花の詩画集を世に出された方です。

かつて体育の教師をしておられた星野さんは、勤務先の学校のクラブ活動の指導中に不慮の事故で頸椎を損傷し、四肢の自由を失ってしまったのでした。

星野さんが24歳の時の出来事でした。

星野さんはそれから長い間生死の境を彷徨い、実に九年間にわたる入院生活を強いられたのです。

当時まだ若かった星野さんは、それはもう悩みに悩まれたそうです。その絶体絶命の窮地の中から星野さんがクリスチャンになられたプロセスと、いかにして口で絵筆を持って詩画集を出版することで生計を立てなさるに至ったかについては、『愛、深き淵より』(立風書房刊)の中で詳しく記されていますので、ここでは割愛いたします。

ある日突然四肢の自由を失った青年教師が、いかにしてその心の眼を開いていったのか。そこには綺麗ごとの美談では到底すまされない、凄絶ともいえる星野さんの葛藤があったことでしょう。

しかし、星野さんはその人生のどん底とすら思える深き淵の中から――苦悩を神にゆだねる信仰をお持ちになることで――彼の人生に救いを見出したのです。

星野富弘さんの著作権に配慮して彼の詩画集からそのお言葉を引用することは差し控えますが、一つだけ、今の私にぴたりと合う詩をご紹介することをお許しいただきたいと思います<(_ _)>

幸せという
花があるとすれば
その花の
蕾のようなものだろうか
辛いという字がある
もう少しで
幸せに
なれそうな気がする
――星野富弘氏

不安と孤独と愛情飢餓に満ち満ちた現代社会において、寄る辺なき辛さや絶望をかかえて呻吟しておられる方は、数え切れないほどいらっしゃいます。

私が協働している子ども食堂の配給に並ばれる方々の数もうなぎ上りに増えていて、今では子ども食堂の運営に関しても次第に難しさを覚えつつあるくらいです。

子ども食堂の行列に並んでおられる方々は、もしかしたら心のどこかで、かつて暗き淵に落ち込んで悩んでおられた星野富弘さんと共通する思いをお持ちなのかもしれません。

ああ、私はもうこんなにも落ちぶれてしまった。
誰も私のことを思って助けてはくれないんだ。
ほんとうは、普通に笑い合えたらよかった。
ほんとうは、普通に皆と仲良くしたかった。
ほんとうは、自分の夢をかなえたかった。
ほんとうは、痛みを汲んでほしかった。
――私はもう疲れ果てててしまった…。

言い尽くせぬ数多くの傷ついた「ほんとうの気持ち」をかかえて子ども食堂に集う人々は、何も子どもに限定されているわけではありません。

私が協働している子ども食堂は、食料の配給相手を子どもに限定していないのです。

ですから、食料の配給の日になりますと、子ども食堂には数多くのおとなが列を成してお並びになるのです。

重く暗い影をその身に纏うように俯いて配給を待つ人々の姿に、私は心の拠りどころを求める魂の咆哮を聞く心地がするのです。

そして、星野富弘さんが歩まれた人生の軌跡とその言葉が、もしその方々の心のドアをそっとノックするようなことがあったなら、その方々も、今ここに咲く幸せを見出すことがお出来になるかもしれないなぁと思うのです。

現代の社会では、どのようにしたらうまく成功するか、どうしたら要領よくお金を儲けることが出来るかといった「ご利益(ごりやく)」主義的なハウ・ツー思想がとかく言い広められる傾向があるように私は懸念しています。

私は社会で成功を収めることも大切な道の一つだと思います。お金がないといかに生活が苦しいものか、そして場合によっては夢をあきらめなくてはならないのかは、自活して医学部医学科を卒業したかつての貧乏苦学生である私はよく存じ上げているつもりです。

しかしながら、星野富弘さんのように、体育教師としての夢も希望も、そして自分の子宝に恵まれる期待も24歳にしてすべて奪われてしまった人に対して、世の「成功哲学」が答えを提示できるとは私には思えないのです。

「辛いという字がある。もう少しで幸せになれそうな気がする」という星野富弘さんの言葉の中に、私は人生の切なくて哀しい淵を通り抜けた方ならではの優しさと知恵を感じ取るのです。

私も病を得ていま医療の仕事から遠ざかり、身体的には非常に痛みを伴う毎日を送っています。私は星野富弘さんの足元にも及ばない小さき者ですが、私もかつて絶望の淵を痛み悲しみをもって喜びの道へと通り抜けました。今私はここに咲く幸せを朝に夕に感じて感謝な日々を過ごしています。

「辛い」という字と「幸せ」という字は、確かに少ししか違いません。

そこには置かれた境遇に対する各自の認識の隔たりもあります。

星野さんは辛さの中から幸せになかなか気づけない方々を譴責する代わりに、穏やかな言霊でそっと「辛さ」を持つ人たちをつつみ込んだのです。

それがほんとうの辛さを知っていた星野富弘さんの愛のあり方なのでしょう。

冒頭にも記しましたように、この人生という旅の途中には、どんなに努力しても、どう頑張っても、道が一向に開かないように見える暗やみの時というものが存在し得るのではないでしょうか。

そんな厳しい試練の中でこそ、ひとは手を合わせて、おおいなるものの前に畏敬の念を持つことを思い出すこともあるのではないでしょうか。

その時にこそ、宗教や思想信条の如何を問わずして、ひとのほんとうの心の眼が開くのではないかと私は思うのです。

私たち人間がふと立ち止まって己の来し方を振り返り、銘々のものの見方や観点を深めて実存的な支えを得る縁(よすが)は、そんな試練の中に秘められているのかもしれません。

実は、今日の記事に添えました私の自作曲は、今日引用させていただきました星野富弘さんの詩句にインスパイアされて作曲したものなのです(*^-^*)

私のこの二つの曲は、実は別々の曲ではありません。先にピアノで創ったメロディに「わらべうた」というタイトルを付して動画をYouTubeに発表し、続いて「わらべうた」をパソコンとシンセサイザーで演奏して制作したものに"Blessing of a Child"という題をつけてYouTubeに発表したのです。

"Blessing of a Child"は、私の音源のミックスダウンとマスタリングのミスにより、ひじょうに音圧が低い静かな動画となっていますので、お聞きになるときにも皆様のお心を乱さなくて済むものと思います(^-^;

「わらべうた」の方は、私の下手な演奏によるものです。ピアノソロの動画の方がデスク・トップ・ミュージックのバージョンよりも音圧が高いとは、なんともいやはや…

私はここにこの曲を星野富弘さんに捧げます。とりわけ、今日ご紹介いたしました「辛いという字がある。もう少しで幸せになれそうな気がする」というあたたかい詩のスピリットに感謝を込めて、この楽曲を星野富弘さんと神様に献納致します。

今日は「絶体絶命の窮地に開く心の眼~自作曲"Blessing of a Child"に寄せて~」と題してお届けいたしました<(_ _)> 

長くなりました。ここまでお読みくださいまして、本当に有難うございました。感謝いたします!

皆様のご多幸とこの星の平和を祈りつつ。

サポートしていただけたら感謝の極みです。頂戴したサポートはクリエイターとしての私の活動資金に使わせて頂きますが、同時にまた、私が協同しているこども食堂への寄付にも充当させていただきます。その子ども食堂はGhana出身のトニー・ジャスティスさんが運営する「ノヴィーニェ」です!