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基本的なデータを見る:社会のリテラシーと次世代への未来

※新型コロナウイルス感染症の一般向けのデータを見ての忘備録的記述。前半は、新型コロナウイルス感染症の変異株データの概観です。
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地方でも、変異株の感染者数が増えています。

例えば、私が住む長野県

これまでに報告された変異株感染者数は約600人。そのうちの半分は、5月の報告です。これまでの報告では、すべて英国型変異株。

今後は、さて、どうなるのでしょうか・・・・?

◆全国の動向は、例えば、東洋経済のページはわかりやすいかと思います。
 https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/

半分辺りの所で、都道府県を選択すると、自分が住む都道府県のデータに変わり、確認することができます。

◆都道府県ごとのデータも、非公式ではありますが、元データとリンクして、例えば、長野県の感染動向は、こんな風にわかりやすくまとめられています。
https://covid19-nagano.info/


このデータまとめをどの都道府県にも出しているようです。
同じパターンで見ると、都道府県ごとの違いは分かりやすいですが、各URLを見るのは大変ですので、前出の東洋経済のページなどのまとめは見やすいと思います。
ただ、グラフや図は、印象操作になってしまうことがあります。意図せずとも。視覚化されているので、単純化されやすいともいえるので、数字の意味を意識してみることが必要な時があります。



では、長野県のすべての感染者中に占める、変異株感染者の割合は?というと、データ検索ではなかなか出てきません。
公開資料からもわかりません。
この辺りの公開の仕方は、自治体ごとに異なりますね。
https://www.pref.nagano.lg.jp/kansensho-taisaku/happyou/documents/0522presshenibessi1.pdf

もっとも、それを知ってどうするのか、と思う向きもあろうかとは思いますが・・・。

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東京都は、47都道府県で唯一、単独自治体で健康(医療)に関する研究所を持つ自治体です。ちょっと別格・・・・。
『東京都健康安全研究センター』
公衆衛生の専門家が職員として勤務しています。こういう組織を持てる自治体は、そうはありません(というか、無い)。自治体の一部署が健康安全を担っているのがほとんどです。


『東京都健康安全研究センター』からのデータは詳細だと思います。
https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/iryo/kansen/screening.html


東京都では、2月頃は、全感染者数に占める従来株が58.0%だったのですが、
5/10ー5/16の報告では、
・従来株:14.6%
・N501Y:66.0%
・E484K単独変異:17.5%
・L452R:1.9%

となっています。

この種別の違いは、前述のページから抜粋引用させていただくと、こういうことです。

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<N501Y変異株>
主にイギリス株、南アフリカ株、ブラジル株の3つをいいます。
それらは、共通してN501Y変異をもっていますが、イギリス株以外についてはE484K変異も伴っています。
N501Y変異株は、感染力や病原性、免疫逃避能(南アフリカ株、ブラジル株)が従来の株よりも高いといわれています。

<E484K変異単独変異株>
N501Y変異を持たず、E484K変異のみをもつ株のことをいいます。

<L452R変異株>
L452R変異をもつ株のことをいいます。
インドで患者が増加している変異株(B.1.617系統)では、L452Rが単独で変異を有するものと、L452Rの他にE484Q変異を伴うものが確認されております。

以上、
https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/iryo/kansen/screening.html
より引用。
============

つまり、いわゆるインド株といわれる変異株はまだ少なく、イギリス株、南アフリカ株、ブラジル株の3つを指すN501Y変異株が、全感染者の約7割弱を占めているのですね。

また、
この東京都のURLを見ると、変異株PCR検査数が増加しており、検査提供側も相当がんばってくれていることが分かります。

それはどういうことかというと、
https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/iryo/kansen/screening.files/screening_052001.pdf

このデータにあるように、5/3ー5/9の報告では、
・7日間で新規感染者数は5589人、
・変異株PCR検査実施数:2578人=新規感染者の46.1%に検査
・この変異株検査数のうち、この期間では、74.9%がN501Y変異株、
ということが分かります。

このような週ごとのデータの累計を母数として、各種の割合が東京都の数値として報告されるわけです。

検査を相当がんばってくれている、と前述したのは、変異株PCR検査、昨年末では週に200弱ほどだったのが、現在では2500以上の検査をしています。

感染しているか同課の検査に加えての検査ですので、相当な数に対応しているわけです。

そして、これらの検査をする医療従事者は、場合によっては長期間、家族と離れて住む、一人で食事する、というような環境で勤務しているわけですね・・・。

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さて、
これらのこと、地方になりますと、データ処理だけでも人が足りないとか、これまで、実数報告のみの報告書で済んでいたのが、この事態でさまざまなことの報告が期待されていますので、負担は大きいのではないかとも思います。

ワクチン接種の導線の設定に、自治体の違いがあり、批判されがちです。
ICTの整備状況や使用に慣れている人の割合、日常のスピード感など、この事態において、通常業務との違いがさまざまに表出されているだろうとも思います。

けれど、批判のみは改善を生まないのでは、と思います。
住民も、冷静な提案、をすることで、改善につなげていける、行政側も意見に感謝する、というサイクルを作っていけるのではないかと思えます。

こういうデータの「基本的」な見方が、社会としてどのくらいできているのか=一般国民のどのくらいの割合ができるのか、は、社会の科学リテラシーとも言えるのかもしれません。

データを見るのは面倒です^^;;
私も、得意科目ではありません。

データがどこにあるのかを探すのはめんどうです。
だから、メディアが、そもそも・・・のデータをきちんと読んで、記事にしていただけるといいと思います。
なさっている記者さんも多いですが、そうでない場合も少なくはない…かもしれません。


・母数が何か?が重要
・全体像をとらえることが大切
基本は至極シンプルです。

メディアの報道は、けっこう修飾語が付いて、私たちは印象を左右されやすいことがあります。
事実はどうか?を意識することが、とても必要な環境と言えるかもしれません。

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「リテラシー」は、「読み書きの能力」という意味の英語【literacy】を語源とするカタカナ用語です。
日本語の意味では「読み書き」が直訳です。
現在では
「与えられた材料や情報などを正しく理解・分析し、活用する能力」という意味で捉えられています。

現在のような情報社会、感染症パンデミックの環境では、「与えられた材料や情報」だけでは足りないこともあります。

もっとも、「足りていない」と思うかどうかも個人の考えや意識にゆだねられています。この感覚も含めて、リテラシーと言えるのかもしれませんが、いずれにしても、社会全体として、リテラシーを上げていくにはどうするといいのか、そもそもどこまで上げるのか、上げるのがいいのか、どんな部分のリテラシーを上げるといいのか、を本気で考えるときのように思います。

おそらく、「教育」というものをどうしていくのか、はひとつの論点でありましょう。
教育は、次の時代の国力を決めていくともいえます。
けれど、いま、教育を受ける子どもたちは、設定された制度の中に居ざるを得ないのです。環境をつくるのは誰か、を考えれば「大人」の役割は重く、自分は何をしてきたのだろう、という思いにもとらわれます。一人の力は小さいにせよ。
次世代にどんな未来を残すのか、残せるのか、は待ったなしです。新たな取り組みも、各地でなされていますので、けして悲観はしていませんが、行政でのお仕事も長い経験から、制度に乗せる、という重要性も思うのです。

2021年5月17日の新聞記事にこのようなものがありました。

前後背景はわかりませんが、
「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中でなくてはならない。』という言葉が私には響きました。

未来を生きる人にどのような教育を提供するのかは、どのよう未来を描くかだと考えます。
この根本的な議論がなされていないように感じるのは、私だけでしょうか?
さまざまな場所で検討・議論はされているのだけれども、正面切って侃々諤々、根源的なディスカッションが出来ているのだろうか?

これをするのは途方もないエネルギーが必要ですが、眼をそむけることができない状況に、日本はなっていると思えます。

ではどうすれば?
確たる答えが出ないのが情けない限りだけれど、そもそもね・・・という、根本的な話し合いを、日常の生活の中で、それぞれが恐れずにしていく、ということなら、少しは出来るのではないかなあと思うのであります。

根本的な話し合いは、現代社会の中では、ソフト、ゆるやかな企画設定も大切だろうと思います。
ただ、時には、正面切って、ガチトーク、それも大切だとも思いますので、何事もバランス・・・・ですね。

社会としてのリテラシー、しばらく考え続けていきたいテーマです。
インスピレーションを受けた、ともいえる感覚。

友人が、インスピレーションの循環、という言葉を伝えてくれました。

インスピレーション=直感からのひらめき・瞬間的に浮かぶ思いつき
語源はラテン語:息を吹き込まれたものの意⇒「霊感」や「閃き(ひらめき)」

何かを発信することで、インスピレーションの循環が起きて、ディスカッション(Notディベート)が発生して、何かを産み出し会えたらいい、と思います。

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データから、感染症の知見の記述を期待なさった方には、肩透かし的な記事だったかもしれません・・・・^^;;ごめんなさいませ・・・。

公衆衛生分野に長い筆者のメモ的記述でした。

余談ですが、発端はマスクの情報確認から、そもそも、長野の変異株って・・・と調べ出して、この文章に。
100年先の社会を考えるならば教育を、という東洋の黄金律を思い出します。

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(朝日新聞5/20記事より)
https://digital.asahi.com/articles/ASP5N6KWMP5NPTIL00R.html?fbclid=IwAR1Nu_7KWC5nkFnK5zCWCWu9nbZR51hrxderDIJoum7I5_HOy7oCcLpGTJE


大阪市長 松井一郎 様
大阪市教育行政への提言
豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために
 子どもたちが豊かな未来を幸せに生きていくために、公教育はどうあるべきか真剣に考える時が来ている。

学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している。そこでは、子どもたちは、テストの点によって選別される「競争」に晒(さら)される。そして、教職員は、子どもの成長にかかわる教育の本質に根ざした働きができず、喜びのない何のためかわからないような仕事に追われ、疲弊していく。さらには、やりがいや使命感を奪われ、働くことへの意欲さえ失いつつある。

今、価値の転換を図らなければ、教育の世界に未来はないのではないかとの思いが胸をよぎる。持続可能な学校にするために、本当に大切なことだけを行う必要がある。特別な事業は要らない。学校の規模や状況に応じて均等に予算と人を分配すればよい。特別なことをやめれば、評価のための評価や、効果検証のための報告書やアンケートも必要なくなるはずだ。全国学力・学習状況調査も学力経年調査もその結果を分析した膨大な資料も要らない。それぞれの子どもたちが自ら「学び」に向かうためにどのような支援をすればいいかは、毎日、一緒に学習していればわかる話である。

現在の「運営に関する計画」も、学校協議会も手続き的なことに時間と労力がかかるばかりで、学校教育をよりよくしていくために、大きな効果をもたらすものではない。地域や保護者と共に教育を進めていくもっとよりよい形があるはずだ。目標管理シートによる人事評価制度も、教職員のやる気を喚起し、教育を活性化するものとしては機能していない。

また、コロナ禍により前倒しになったGIGAスクール構想に伴う一人一台端末の配備についても、通信環境の整備等十分に練られることないまま場当たり的な計画で進められており、学校現場では今後の進展に危惧していた。3回目の緊急事態宣言発出に伴って、大阪市長が全小中学校でオンライン授業を行うとしたことを発端に、そのお粗末な状況が露呈したわけだが、その結果、学校現場は混乱を極め、何より保護者や児童生徒に大きな負担がかかっている。結局、子どもの安全・安心も学ぶ権利もどちらも保障されない状況をつくり出していることに、胸をかきむしられる思いである。

つまり、本当に子どもの幸せな成長を願って、子どもの人権を尊重し「最善の利益」を考えた社会ではないことが、コロナ禍になってはっきりと可視化されてきたと言えるのではないだろうか。社会の課題のしわ寄せが、どんどん子どもや学校に襲いかかっている。虐待も不登校もいじめも増えるばかりである。10代の自殺も増えており、コロナ禍の現在、中高生の女子の自殺は急増している。これほどまでに、子どもたちを生き辛(づら)くさせているものは、何であるのか。私たち大人は、そのことに真剣に向き合わなければならない。グローバル化により激変する予測困難な社会を生き抜く力をつけなければならないと言うが、そんな社会自体が間違っているのではないのか。過度な競争を強いて、競争に打ち勝った者だけが「がんばった人間」として評価される、そんな理不尽な社会であっていいのか。誰もが幸せに生きる権利を持っており、社会は自由で公正・公平でなければならないはずだ。

 「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中でなくてはならない。そうでなければ、このコロナ禍にも、地球温暖化にも対応することができないにちがいない。世界の人々が連帯して、この地球規模の危機を乗り越えるために必要な力は、学力経年調査の平均点を1点あげることとは無関係である。全市共通目標が、いかに虚(むな)しく、わたしたちの教育への情熱を萎(な)えさせるものか、想像していただきたい。

子どもたちと一緒に学んだり、遊んだりする時間を楽しみたい。子どもたちに直接かかわる仕事がしたいのだ。子どもたちに働きかけた結果は、数値による効果検証などではなく、子どもの反応として、直接肌で感じたいのだ。1点・2点を追い求めるのではなく、子どもたちの5年先、10年先を見据えて、今という時間を共に過ごしたいのだ。テストの点数というエビデンスはそれほど正しいものなのか。

あらゆるものを数値化して評価することで、人と人との信頼や信用をズタズタにし、温かなつながりを奪っただけではないのか。

間違いなく、教職員、学校は疲弊しているし、教育の質は低下している。誰もそんなことを望んではいないはずだ。誰もが一生懸命働き、人の役に立って、幸せな人生を送りたいと願っている。その当たり前の願いを育み、自己実現できるよう支援していくのが学校でなければならない。

「競争」ではなく「協働」の社会でなければ、持続可能な社会にはならない。

コロナ禍の今、本当に子どもたちの安心・安全と学びをどのように保障していくかは、難しい問題である。オンライン学習などICT機器を使った学習も教育の手段としては有効なものであるだろう。しかし、それが子どもの「いのち」(人権)に光が当たっていなければ、結局は子どもたちをさらに追い詰め、苦しめることになるのではないだろうか。今回のオンライン授業に関する現場の混乱は、大人の都合による勝手な判断によるものである。

根本的な教育の在り方、いや政治や社会の在り方を見直し、子どもたちの未来に明るい光を見出したいと切に願うものである。これは、子どもの問題ではなく、まさしく大人の問題であり、政治的権力を持つ立場にある人にはその大きな責任が課せられているのではないだろうか。


令和3(2021)年5月17日
大阪市立木川南小学校
校 長 久保 敬

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