フロマートカの言葉メモ その7

この記事に続きまして,お届けしますのはフロマートカというプロテスタント神学者の言葉であります。フロマートカの言葉を理解するのに聖書が必要であるのはいうまでもないが,聖書の特に福音(evangelion)という言葉を重視する姿勢をフロマートカが持っている,ということを理解するとよいと思われる。

フロマートカ「喜びの不足は、真の信仰と真の愛が不足している結果である。恐らく私たちの働きが効果を上げないのもこの不足と関連している」

フロマートカ「イエスが王的職務を果たすのは、政治であれ文化であれその他の何であれこの世の権力の届かないところ、人間の心の中においてである。しかしまた彼は、己の民を支配する。彼らの内面的な関係、彼らのこの世界での働きを支配する」

フロマートカ「教会は契約の共同体である」

フロマートカ「旧約で取り上げられているのは神の民の共同体であったが、新約で取り上げられているのは信仰と愛と希望を抱く人たちの共同体である」

フロマートカ「教会は聖人聖女が集まる理想の集団ではない。人間のあらゆる堕落の特徴をそなえた罪深い者たちの集まりである。常に不統一、崩壊、迷い、そう、世俗化に傾く危険を抱えている」

フロマートカ「教会は常に以下の危険にさらされている。規定、法秩序、習慣、教義形式に基づいて機能する融通の効かない機関に成り下がってしまうこと、このために聖霊の生きた信仰、豊かさ、そして常に新しい神の働きの障害になってしまうこと、自分の聖堂、礼拝、戒規の規定、そして教義を、神の王国の深さと幅広さ、自由と喜びの代わりにしてしまうこと、である。しかし教会にはまた、明快さ、関心、内面的な規律が不足し、分割して宗派やグループに分かれ、統一した意識と互いの責任感も失ってしまう別な危険がある」

フロマートカ「神の言葉が絶対的な上からの介入であり続け、聖霊があらゆる司祭の礼拝や礼典の務めから自由であり続けるように、勝利したイエスはその権威を保ち続け、教会に対して至高の存在であり続ける」

フロマートカ「教会は聖霊の活動の場である。たとえ普通の目には見えなくとも,事実であり効力を持つ,不思議なことが新たに次から次へと起きる共同体である。教会は契約の共同体であり,キリストの体であり,しかしまた信仰と奉仕の愛に燃え,信徒だけでなくあらゆる民への奉仕のため,利益のため,教育のために与えるべき賜物を授かっている者たちの共同体である」

フロマートカ「弱さ,貧困,罪責,絶望のための答えは,「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが,それがどこからきて,どこへ行くかは知らない」(ヨハネ福音書3章8節)と教えた方の,生きた働きの中にあるのである」

フロマートカ「キリスト教会はトーンと和音とメロディのシンフォニーである」

フロマートカ「信仰は形のない感情の流れでも,精神的な体験の興奮でもない。信仰にあるのは,知恵,方向性,戒規である。そしてまた,聖霊は秩序の霊であり,決して身勝手で無秩序なものではない」

フロマートカ「人間の集団は、それを差し迫って真剣に示されれば、理解し、受け入れることができる。言葉は常に個人的なものである。これは神から人間への個人的な告知であり、だからこそその瞬間に生きる人間に対する知識、理解、同情をもって告知されなければならない」

フロマートカ「厳密には、サクラメントは一つだけである。それはキリストの受肉(神の言葉がナザレのイエスの肉となったこと)である。神はそれによって民と契約を結び、十字架に架けられたイエスが歴史の終わりに勝利することを示した」

フロマートカ「ナザレのイエスは自分のためには何も望まず何も期待しなかった。イエスの教会もまた、利益や特権や権力のある地位を求めてはならない」

フロマートカ「イエスはあらゆる価値を評価しなおした。また、あらゆる概念に新しい内容を与え、聖堂の機構、祭司の地位、ラビの知恵、神学の学識、そして世間で認められることや利益や権力への人間の抑えがたい欲望に対して、己の全ての態度と言葉によって、厳しくとも愛情を伴う批判を浴びせた」

フロマートカ「ナザレのイエスと共にいることで、私たちは自分たちの堕落、実際の生活においてイエスの正義と聖なる愛からいかに深い隔たりがあるかを自覚する。しかし私たちはイエスを、私たちに耐えられない重荷を課し、ほしいままの命令によって私たちを痛めつける暴君とは呼ばない。なぜならイエスは私たちの荷を背負い、自分が定めた道を私たちと共に歩み、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ福音書11章30節)という自分の言葉の単純な正しさを説得させる王だからである」

フロマートカ「主は私たちと共にあり、私たちの間にいる」

フロマートカ「最たる危険は、あらゆる歴史において偶然吹き溜まったものがキリスト教としてみなされること、信仰の生ける源と真の愛の燃えるような力が消えていくこと、多くのキリスト教徒がほんとうはキリスト教でないものをキリスト教とみなしていくことである」

フロマートカ「イエスはこの世のものではないが、愛のためにこの世に入った」

フロマートカ「キリスト教徒の義務は、周りの世界を注意深く現実的に理解すること、敬虔な言い回しだけで自己満足しないこと、とりわけ敬虔で善意にあふれているけれどもたいてい安っぽいものにすぎない勧告によって、社会の複雑な課題を抱えている人を助けられるなどと勘違いしないことである」

フロマートカ「聖書を信じる人は、科学の新しい発見、批判する勇気、革新的またはしばしば革命的な政治的・社会的要求事項に腹を立ててはならない。人間の務めの完全さ、また些細なものであれ何かしらの進歩を求める注意深い努力を足蹴にしてはならない」

フロマートカ「誰かが世界から逃げ出そうとしても無理である。世界からの逃避は、聖書の証言によっても正当化できるものではない」

フロマートカ「人間は簡素で解放的になればなるほど、より深く世界と自分の周囲の社会を知るようになり、自分の立っている場で今この瞬間に何をすべきなのか、より責任を持って自問するようになる」

フロマートカ「福音は真理への感覚を鈍らせるものではない。それどころか人間をこの世における真理の探究においてもより責任強く、正確に、勇敢にする」

フロマートカ「福音はまた、政治や社会の秩序だけでは人間とその社会の表面しか作り上げないこと、しかしこうした秩序は人間の心が純粋な正義と清められた愛で満たされたならば、腐敗から守られる(そのときにおいてのみ完全となる)ことを説く」

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