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四国八十八ケ寺の20番から23番の札所に行って来ました。(2021-10-24 )

四国八十八ケ寺の20番から23番の札所に行って来ました。(2021-10-24 )

2021/10/23に家内の友人夫妻と徳島にあるお好み焼き屋に行った後、
四国八十八ケ寺の18番と19番の札所にお参りして、阿南市のホテルに泊まり 翌日(10/24)には23番→22番→21番→20番にお参りして、以前に行けなかった
12番札所にお参りして これで徳島のお寺は全部行きました。

 下の画像は四国八十八ケ寺の20番から23番の札所の地図です。
 23番の薬王寺は42歳の厄除けの時にお参りして以来で
 日和佐のうみがめ博物館は開園前で見れませんでした。
 21番の太龍寺は標高618mの太龍寺山の山頂近くにあり
 平成4年に開通したロープウエーに乗って行きます。
 20番の鶴林寺は標高470mの鷲が尾の山頂にあり 
 徳島県下唯一の三重塔は県指定重要文化財である。

20番札所~23番札所

     下の画像は四国88カ所
     20番鶴林寺・21番太龍寺・22番平等寺・23番薬王寺です。
      

20番札所~23番札所

        第20番札所 霊鷲山 宝珠院 鶴林寺   

第20番札所
第20番札所
第20番札所
第20番札所
三重塔

          
 鶴林寺の歴史・由来
 
 標高470メートルの鷲が尾の山頂にあり、遠く紀州や淡路の山峰、
  遙かに太平洋を眺望できる風光明媚な霊山が境内である。
  樹齢千年を超すような老杉、檜や松の巨木が参道を覆っており、

  寺門は静謐ながら隆盛の面影をしのばせる。
  寺伝によると延暦17年、桓武天皇の勅願により、
  弘法大師によって開創された。大師がこの山で修行していたとき、
  雌雄2羽の白鶴がかわるがわる翼をひろげて 老杉のこずえに
  舞い降り、小さな黄金のお地蔵さんを守護していた。

  この情景を見て歓喜した大師は、近くにあった霊木で高さ90センチほど
  の地蔵菩薩像を彫造、その胎内に5.5センチぐらいの黄金の地蔵さんを
  納めて本尊とし、寺名を鶴林寺にしたといわれる。
  また、境内の山容がインドで釈尊が説法をしたと伝えられる霊鷲山に
  似ていることから、山号は「霊鷲山」と定められた。
  以来、次の平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇と歴代天皇の帰依が篤く、

  また源頼朝や義経、三好長治、蜂須賀家政などの武将にも深く信仰され
  て、七堂伽藍の修築や寺領の寄進をうけるなど寺運は大きく栄えた。

  阿波一帯の寺が兵火に遭遇した「天正の兵火」にも、山頂の難所にある
  ためか難を免れている。 「お鶴」「お鶴さん」などと親しまれ、
  山鳥が舞う大自然そのままの寺である。

鶴林寺の見どころ
 波切り地蔵・地蔵菩薩立像・鶴林寺の室町時代の年号を刻んだ丁石が、
 本堂から遍路道沿いに11基残っている。

 1丁は約109メートル。徳島県最古の丁石。三重塔(県指定重要文化財)                

      第20番札所       
第20番札所 
      第20番札所    
         第20番札所        
    第20番札所 
   第20番札所

         第21番札所 舎心山 常住院 太龍寺

21番札所
21番札所
21番札所
21番札所
21番札所

    太龍寺の見どころ  舎心嶽・ロープウェイ    

舎心嶽 
ロープウェー

 太龍寺の歴史・由来

  「西の高野」とも称される。四国山脈の東南端、
  標高618メートルの太龍寺山の山頂近くにある。
  樹齢数百年余の老杉の並木が天空にそびえ、
  境内には古刹の霊気が漂う。
  弘法大師が19歳のころ、この深奥の境内から南西約600メー
  トルの「舎心嶽」という岩上で、100日間の虚空蔵求聞持法を
  修行されたという伝えは、大師が24歳のときの著作
  『三教指帰』に記されており、よく知られている。
  虚空蔵求聞持法は、真言を百万遍となえる最も難行とされる
  修法で、大師青年期の思想形成に大きな影響を及ぼして
  縁起によると延暦12年、桓武天皇の勅願により堂塔が
  建立され、弘法大師が本尊の虚空蔵菩薩像をはじめ
  諸尊を造像して安置し、開創した。
  山号は修行地の舎心嶽から、また寺名は修行中の大師を
  守護した大龍(龍神)にちなんでいる。

  皇室や武家の尊信が厚く、平安時代の後期には子院12ヶ寺を
  もつほどに栄えていた。だが、「天正の兵火」からは逃れら
  れなかって また、江戸時代になっても幾たびか罹災し、
  荒廃の途を余儀なくされているが、その都度ときの藩主の
  保護をうけ再建されている。
  仁王門は鎌倉時代の建立で、他の堂塔は江戸時代以降に復興
  している。四国巡礼者にとって、屈指の難所であったこの
  山岳寺院にロープウエーが開通したのは平成4年である。
  徒歩では、中腹の駐車場から坂道を登るのに30分も要して
  いた。1,200年のむかし、大師の修行時代をしのばせる迫力、
  風格をそなえた古刹である。

   

21番札所 
21番札所   
21番札所      
       21番札所         
21番札所 
        21番札所      
       21番札所      
21番札所

      第22番札所 白水山 医王院 平等寺

22番札所
第22番札所
第22番札所 
第22番札所 
第22番札所 
本尊薬師如来

平等寺の歴史・由来

 弘仁5年、弘法大師がこの地を訪れ禅定に入られたころ、
 心に薬師如来さまの姿が浮かびました。 お大師さまはそのお薬師さまを
 想いながら次のような御誓願を立てられます。
 「あらゆる人々の心と身体の病を平等に癒し去る」
 大師はこの地での修行を志し加持水を求めて井戸を掘られたところ、
 乳のごとき白い水が湧き溢れました。
 その霊水で御を清められた大師は百日間護摩行を続けた後に
 先のお薬師さまの姿を木に刻まれ本尊として奉安し、山号を白き水が
 湧いたことから白水山、寺号を平等寺と定められました。
 以後、寺は大規模に栄えましたが江戸初期頃までに一度興廃し、1680年に
 伊予から来た中興一世照俊阿闍梨らによって再興され、現在に至っていま
 す。現存する本堂が再建されたのは1737年、大師堂は1824年建立です。
 大師が掘られた霊水の湧く井戸は男厄除坂の左下にあり、どんな日照りに
 も枯れることなくこんこんと湧き出ております。現在は無色透明で飲用に
 適し、万病に効く「弘法の霊水」として全国に知られています。

第22番札所
第22番札所
第22番札所

      第23番札所 医王山 無量寿院 薬王寺

23番札所
23番札所
23番札所
23番札所

薬王寺の歴史・由来

 「発心の道場」といわれる阿波最後の霊場。高野山真言宗の別格本山でも
 ある。厄除けの寺院としては全国的に有名で、「やくよけばし」を渡って
 本堂に向かう最初の石段は、「女厄坂」といわれる33段、続く急勾配の
 石段「男厄坂」が42段で、さらに本堂から「瑜祇塔」までは男女の
「還暦厄坂」と呼ばれる61段からなっている。
 各石段の下には『薬師本願経』の経文が書かれた小石が埋め込まれて
 おり、参拝者は1段ごとにお賽銭をあげながら登る光景が見られる。
 縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願によって行基菩薩が
 開創したとされている。弘仁6年 弘法大師が42歳のとき自分と衆生の
 厄除けを祈願して一刀三礼し、厄除薬師如来坐像を彫造して本尊とされ、
 厄除けの根本祈願寺とした。大師は、この厄除け本尊の功徳を平城天皇、
 嵯峨天皇、淳和天皇の3代に相次いで奏上したところ、
 各天皇は厚く帰依し、厄除けの勅使を下して官寺とされている。

 文治四年、火災で諸堂を焼失しているが、このとき厄除け本尊は、
 光を放ちながら飛び去り、奥の院・玉厨子山に自ら避難した。
 のちに後嵯峨天皇が伽藍を再建して新しい薬師如来像を開眼供養すると、
 避難していた本尊が再び光を放って戻り、後ろ向きに厨子に入られたと
 伝えられる。以来、「後ろ向き薬師」として秘仏にされている。
 境内には吉川英治著『鳴門秘帖』、司馬遼太郎著『空海の風景』に
 登場した石碑がある。

23番札所
23番札所
23番札所
23番札所
23番札所
23番札所
23番札所
23番札所

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