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音楽と映像、ライブ版かスタジオ版か、『アメリカン・ユートピア』を観て思ったこと

 デイビッド・バーンの『アメリカン・ユートピア』を観た。見ながら思ったのはバーン氏の目の輝きが、子供の目のように光っていること。
 バーン氏が観客に話す声と、氏の歌声が(当然だけど)同質で地続きなんだなあと愚にもつかぬことを感じながら見ていたが、途中からは60代のバーン氏と、ルドルフ・シュタイナーの顔がどこか似してる気がし始めた。

 ライブ音楽映像やPVというのか、MVというのか、公式のミュージックビデオという物がある。それらはもちろん優れていたり見応えがあったり一流だったりするのだろうが、なぜかあまり進んでは見る気がしない。

 音楽が引き起こす、色や形、形象、目には見ないが心が確実に感じるそれらの、大げさだけど、云わば内なる映像体験みたいなもの。音楽で感じる、匂いや味や触感も確かにある。

 ビデオ映像で「これが公式です」と規定されてしまうと、息苦しい気もする。
 もちろん、それは気にしなければ良いのだが、映像が一流であればあるほど、音楽と映像が結びつくこともある。

 堅苦しく考えることはないのかもしれない。

 しかし好きな曲であればあるほど、何度も繰り返し聴くので、リピートし続けた頃には何となく、自分の中に、ぼんやりとした浮遊するような、その曲に伴うイメージ(や香りや味わいや感情など)が想起されるようになる。

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 トーキングヘッズの音楽は、ブライアン・イーノ関連で初期の3枚は聴き狂った。しかしその他はベスト盤で済ませていた。

『ストップ・メイキング・センス』というライブ映像があることは知っていた。しかしどうしても見る気がしなかった。時間があるときにでも見ればいいかと思っていて、結局まだ見ていない。

 音楽は心の中に興奮や慰みや楽しさや様々な感情を呼び起こす。その曲を聴いてなぜ悲しくなるのか、なぜ慰められるのか、なぜ踊り出したくなるのか、一体、音が人間の心にどんな作用があるのか、どこか神秘的な、謎めいた、まだまだ未解明な秘密があるのだろうかと思ってしまう。

 改めて言う必要もないが、音楽は心の中、感情内に記憶も呼び覚ます。かつて好きだった曲を久しぶりに聴いたら、当時の感情や記憶が鮮明に脳裏に現れる。

 デイビッド・バーンの『アメリカン・ユートピア』は、映画ではなく、最初はスタジオ録音の音楽アルバムを聴いていた。そこに付録として収録されていたライブ版の i zimbra を耳にして私はすっかり上気した。

『アメリカン・ユートピア』という映画の元になったオリジナルのスタジオアルバムがあるということをそもそも私は知らなかった。私は『アメリカン・ユートピア』をきっとお洒落っぽい映画なのだろうと思っていた。

 映像の前に音楽があった、ということを知って、私は音楽のみで済ますつもりでスタジオアルバムを聴いていた。

私はトーキングヘッズのライブ音源やライブ映像も特に意識してこれまで見たことも聴いたこともない。

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 インディーズバンドをやっている知人にあるとき「youtubeでどんなものを見ているか」訊いたことがある。
 彼は「ずっと音楽のライブ映像を見続けている」と言った。映画には興味がない。物語の映画はほとんど見ない。ライブの音楽映像をひたすら見てますよ。

 彼は演奏技術などを映像で確認しているらしい。
 なるほど、そういう見方もあるのかと私はそのとき思った。

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 ビートルズは中期以降、ライブをやるのを止めた。XTCもライブをしない。
 私はトーキングヘッズもライブをしないバンドなのかと思っていた。
 そもそもコンサートやライブって行って楽しいものなのだろうかという疑問が少なからず私にはあった。
「コンサートを期待しているお客さんもいますが」という記者の質問にビートルズの誰かが「ライブ演奏では音楽を再現できない」とか「観客は騒いでるだけでそもそも僕らの音楽を聴いてない」等とどこかで答えているのを読んだ気がする。
 ライブって何のためにやるのだろうかと(自分は音楽家でもないのに)悶々と考えていたこともある。

 デイビッド・バーンの『アメリカン・ユートピア』スタジオ版のボーナストラック、 i zimbra この曲に打ちのめされた。

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 ライブバンド、という言葉があるらしい。スタジオ録音のアルバムも勿論作るが、ライブではそれ以上の熱気と即興と情熱で会場全体を観客と一体となって音楽的恍惚と戦慄の坩堝と化させる。
 そんなバンド。
 ライブで本領を発揮するミュージシャンという意味らしい。

 そういえばイーノがライブ音楽とスタジオ音楽の違いを解説していた。
 スタジオでの音楽制作は、いわば細密画。ライブでの音楽演奏は、豪快な水墨画。分かりやすい例えだと思った。

 スタジオ版はいまいちだけど、ライブ版は迫力がある、というミュージシャンで真っ先に思いつくのはJ・A・シーザーである。
 しかしシーザーの場合は、スタジオ版でも『奴婢訓』『レミング』『カスパー・ハウザー』など、傑作を幾らでも列挙できるので、スタジオ版細密画、と共に、ライブ版水墨画も同等に素晴らしい。シーザーのことを考えると長大になるので、止めるが、つまり、豪快な水墨画をライブ演奏で華麗に本領発揮する音楽家が(私が無知なだけで)存在する。
 私の音楽の聴き方がかなり偏っているだけで、むしろそのようなライブ演奏が素晴らしいミュージシャンが数多くいるに違いない。

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『アメリカン・ユートピア』は、私にとって、ライブでの音楽の素晴らしさを実感させてくれる貴重な映像だった。

 デイビッド・バーンの目の輝きは、子供の目のように明るいが、子供の目の輝きに、深遠な知性がどこか加わっている感じがする。

 やはりシュタイナーの肖像写真とデイビッド・バーンの顔は似ていると思ってしまう。

 映画を何度か繰り返して観た後、トーキングヘッズの過去のライブ映像が気になった。デイビッド・バーン、トーキング・ヘッズはライブバンドなのではないかと、遅まきながら思った。
 youtubeで1980年のトーキングヘッズのライブ映像を見た。ギタリストとして加わっているエイドリアン・ブリューがダダイスト的に一流の超絶アバンギャルド変態サウンドを轟音で響かせていた。その演奏に私は打たれた。画質の粗い映像で、私はその痩せたギタリストが誰だか分からず、姿形が似ているので最初イーノなのかと思ってしまった。
 映像を見て、私は1980年のトーキングヘッズのライブ音源を何としても、できれば高音質で聴かなければいけないと思った。
 
 検索をして、やはりアマゾンミュージックに辿り着いた。アマゾンミュージックのトーキングヘッズページには有象無象のブーレグ(らしい)アルバムが数十枚と陳列されている。
 
『ストップ・メイキング・センス』も改めて観なければならない。

 私が映画『アメリカン・ユートピア』で素晴らしいと思ったこと。最後の歌、road to nowhere を歌い終わった後の、デイビッド・バーンの笑顔。
 震えが来るほどの美しい瞬間だった。
 音楽の楽しさ、喜びが伝わってきた。
 やはりまたあの笑顔が見たいと思ってしまう。


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