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フランス語と僕 Ⅲ. 波

うーん。どこで間違ってしまったのだろう。

語学学校での授業が始まって数日、教室で僕は虚空を見つめていた。先生が、何を言っているのか、さっぱりわからない。Si vous ne comprenez pas quelque chose, n'hésitez pas à me poser des questions. かろうじて聞き取れたのは、お決まりのコレだ。「何かわからないことがあったら、聞いてくださいね」、先生が決まって言う定型文。定型文だから聞き取れるのであって、何がわからないかわかったら苦労はない。何がわからないかもわからないから困っているというのに。

フランスに着いて二週間が経った9月の半ば、ついに授業が始まった。僕が通うことになっていたレンヌの語学学校はそこそこ評判のいいところだったが、フランスの他の多くの学校と同じように、CECRL (Cadre Européen Commun de Référence pour les Langues) - 「欧州言語共通参照枠」に倣ってクラスのレベル分けがされていた。CECRL とはその名の通り、異なるヨーロッパ言語の習熟レベルを一律に計るために設けられた基準で、A1 - A2 - B1 - B2- C1- C2 の順に上がっていく。A1 が初級者で、C2 まで行けばネイティブレベルと言われることもある。 

学期明け、オリエンテーションとともに、クラス分けのテストがあった。結果に応じて A1 から C2 までのどこかのクラスに割り振られる。ただ、当時この学校のクラス分けテストは “筆記のみ” だった。会話に自信のない僕は内心ほっとした。簡単な記述問題と、作文が課された。作文のテーマは「お金と健康と愛、あなたは人生においてどれがいちばん大切だと思いますか?」僕はたしか “愛” と答え、それについてA4用紙一枚ほどの作文を書いた。うん、上出来。考える時間さえもらえれば、言いたいこともなんとかまとめられるし、文法にも細心の注意を払って書くことが出来た。受験英語と仏検の勉強で培われたものだ。

これが裏目に出た。僕の感覚と違わず、作文の出来はけっこうよかった。それで「こいつはさぞフランス語ができるんだろう」と思われたか、僕はいきなり B2 のクラスに入れられた。B2 は、六つあるレベルの中で上から三番目だ。中級だが、実感としてはほとんど上級と言える。たとえばフランスの多くの大学では、留学生に対する入学条件を「B2 を持っていること」としている。B2 は言わば、その言語において “一人前” であることの証なのだ。

その時の僕はもちろん “一人前” からは程遠かった。オーラルのレベルが、明らかに筆記のそれに追いついていなかった。読めるし書けるけど聞けないし話せない。日本人の多くが陥りがちな、典型的なジレンマの渦中にいた僕にとって、B2 はどう考えてもレベルが高すぎた。20人近いクラスで日本人は僕一人だったが、他はほとんどがヨーロッパ出身者やアメリカ人、中東系と、アジア系では中国人が数人といった感じだ。彼らは僕よりずっとバランスがとれていた。筆記に相応しいオーラルレベルを兼ね備え、先生の言うことを難なく理解し (そのように僕には見えた)、申し分のないフランス語会話力を活かしてすぐに友達を作った。

僕はというと当時はまだ英語の方が話せたが、B2 ともなれば英語母語話者同士でもない限り英語では話さない ( 逆にAレベルではまだフランス語でコミュニケーションを取るのは難しく、クラスメイト同士の会話はほとんど英語だ) 。つまりその状況において、僕のフランス語のオーラル能力の欠如は致命的だった。高速道路をとろとろ走る自転車みたいなものだ。そんなのに合わせていられないし、置いていくに限る。僕は独りになった。

クラスを変える、という選択肢もなかったわけではない。B2 レベルに合っていないのは明らかだったから、レベルを一つ下げ B1 に行くことも、やろうと思えばできた。B1 だったら、当時の僕でもなんとかやっていけただろう。でも僕はそうしなかった。幼稚な悔しさと負けず嫌い以外のなにものでもなかったが、少なくともクラス分けテストの段階では、僕は B2 レベルだと認められたわけだ。だったらそれに自分を合わせよう。

孤軍奮闘、数週間が経った頃だったろうか、クラスメイトが一人増えた。セミロングの黒髪にサングラスをかけて颯爽と教室に入ってきた彼女(Rと呼ぶ) は、ロシア出身だったけれどアジア人のような顔立ちだ。モスクワで出会ったフランス人と結婚し、二年前にレンヌに越してきたというRは一児の母で、当時まだ赤ん坊だった息子をベビーシッターに預けていた。彼女も B2 レベルだったが、B2 だけで数クラスあった。前にいたクラスの時間割がベビーシッターの都合と合わない、ということで僕たちのクラスに移ってきたのだ。新しいクラスに入って、彼女もまた独りだった。

僕は迷わなかった。どうせ一人ぼっちで話し相手もいなかった僕は、彼女の隣に座り積極的に話しかけた。Rは結婚と移住が決まってからフランス語を始めたというのでまだ二年ほどしか勉強していなかったはずだが、すこぶるフランス語が上手だった。性格は少し頑固だが頭は柔らかくて、賢かった。流暢なフランス語を操る一方 "r" の発音だけはフランス語特有の喉を使った音ではなくロシア語風の巻き舌だったのだが、どうして?と聞くと「できるけど、疲れるから」と答える、そんな人だった。

それから毎日、Rと一緒に学食で昼ご飯を食べるようになった。フランスに来た理由、好きなものや嫌いなもの、クラスメイトや先生のこと、フランス語の文法のわからないところ、とにかくいろんなことを話した。語学学校に行ったことのある人ならわかると思うのだが、まじめに授業に出ても案外話す機会はない。授業に出たから話せるようになるのではなく、話したことを話せるようになるだけなのだ。だから毎日一緒に話す相手がいたこと、そしてその人がフランス語が上手で、さらに気の合う人だったことは、僕にとって本当にありがたいことだった。それに同じ人が相手だと、一度した話はもうできない。毎日、違うことを話さないといけない。僕がいろんなことをフランス語で話せるようになったのは、少なからず彼女のおかげだと思っている。

授業が始まって一、二ヵ月が過ぎた頃だろうか、まだ万全というわけではもちろんないが、だんだん授業についていけるようになっていた。それにフランス語が達者なRのおかげで、彼女と一緒に、他のクラスメイトとも少しずつ仲良くなっていくことが出来た。
その時期、僕がいちばん得意だったのは Grammaire (文法) の授業だった。なぜなら内容のほとんどは、既に自分で勉強していたことだったからだ。先生の話を聞いて内容を理解するのではなく、内容を先読みして、フランス語を完全に聞き取れないながら、先生がどんなことを話しているのか想像していた。

そしてその中でもディクテ (書き取り問題) は得意だった。何と言っても、先生がゆっくり読んでくれるのだ!一語一語はっきり発音してくれるので容易に聞き取れるし、そうとなれば綴りも冠詞も性数一致もかかってこいだった。
だから、いつもは饒舌なクラスメイトのHが手を挙げて Monsieur, encore une fois s'il vous plaît ! (先生、もう一回お願いします) と言ったときには心底びっくりした。Hはイラン出身で、学期が始まった時からいちばん目立っていて、クラスの中心的存在だった。だいたいどのクラスにも一人はいる、先生をからかって注目を集めるお調子者だ。最初、僕はフランス語が話せなかったので、端的に言って彼が苦手だった。目障りだった。でも、本当は羨ましかったのだと思う。彼はフランス語が驚くほど流暢で、すぐにみんなと仲良くなっていた。

そのHが、この程度のディクテも聞き取れない…??僕は唖然とした。当時彼は、僕がフリーダイヤルの音声案内だとしたら Siri くらい饒舌にフランス語を操っていた。話せている以上、相手の言うことも聞き取れているはずだ。なのにどうして…。このとき僕は、“正確に聞き取る” だけがコミュニケーションではないことを知った。たぶん彼は先生や友達と話しているときに、その一語一語を拾って頭の中で綴りに変換したりはしていない。そうしなくても、もっと何か違う方法で、ただ音声を伝って意図をキャッチし、会話をしているのだ。だからいざ「聞いたことを文字に」しようとするとペンが止まる。

彼のように出来たらな、と思ったのかもしれない。聞き取ったことをいちいち文字ベースで分析して、ここの時制はこうでこれは女性名詞だから発音が変わって、とかに振り回されずもっと気軽に話せたらな、とか、なんでただ簡単なコミュニケーションを取るのにも毎回つまようじを用意しないといけないんだろう、とか思ったのかもしれない。でも、僕は彼ではない。気の迷いはすぐに直った。自分のやり方で、同じくらい話せるようになろう。

「三か月で耳は慣れる」というのは (僕の場合) 本当だった。B2 クラスの先生たちの手加減のないフランス語もだんだん聞き取れるようになってきた。友達もいる。自分を取り巻く情報も受け取れる。心細さはもうなかった。波に乗ってきた。

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