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フランス語と僕 Ⅷ. 幸福な呪い

年号が変わり、気が付けば2020年になり、来年は東日本大震災から十年。

時間は容赦なく進んでいく。歳を取ると年々時間の進みが速くなって…というのはきっと誰もが感ずるところだが、僕の場合もう一つ、時間感覚を形成する重要な断絶がある ── それが2013年から2014年までの一年の留学で、すごく大雑把に言ってしまうと帰ってきてからの時間は全部ひっくるめて、 “ポスト留学” とでも言うべきひとつの大きな時の塊として僕の中に佇んでいる。だからその中だけでもう六年近い時間が流れていて、その間にいろいろなこと、大学を変えたり、フランス語の教師になったり、様々な人に出会ったりしたことの全部が詰まっていると思うと不思議な気持ちになる。向こうで知り合った友達の赤ちゃんもすっかり男の子になってしまった。

ということで、これまでのマガジンでは留学前夜、それから留学中と帰国直後の出来事 (年数にして約二年…) のことを書いてきたけれど、今回はその “ポスト留学” の最初の一年 (2014年秋~2015年夏) のことを書いてみたい。

2012年の夏に独学でフランス語を始め、その秋に仏検4級、翌年夏に準2級を取ってから間もなくフランスに渡り、通い始めた語学学校ではいきなり B2 のクラスに入れられ、なんとかそれを乗り切ったものの帰国直前に受けた DALF C1 では惜敗を喫した僕は当時、多少なりとも “試験” に取り憑かれていたように思う。と言うとやや大袈裟だが、帰ってきた日本語の海で溺れかけ、日々フランス語を忘れてしまう恐怖と闘っていた僕にとって試験・検定を受けることは多かれ少なかれ、進むべき道を照らしてくれるものだった。

それで早速、2014年秋の仏検準1級を受けた。筆記は難なく出来たものの、予想外に面接がハードだった。何といっても時間が足りない。3分の口頭発表をするのに3分の準備時間しかないのだ。
それまでで僕が最後に受けた試験は DALF の C1 で、こちらは時間だけは比較的余裕がある。だから仏検では限られた時間内で構成を練らなきゃいけないのを難しく感じ、手応えとしてはあまりよくなかった。けれど結果は合格。たぶん質疑応答を柔軟にこなせたからだろう。C1 を受けた時は「受かった」と思ったら落ちた。今度の準1級は「落ちた」と思ったら受かった。

時を同じくして、日仏会館主催のフランス語スピーチコンクールに出場した。タイミングもよかったし、いい力試しにもなった。締め切り直前に急いで書いた原稿はなんとか通り、決勝大会の結果は二位。フランス行きの航空券までついてきた。
結果報告をするために大学で一番お世話になっていたN先生に電話をかけると、「おめでとう。でも一位じゃなかったことを忘れないように」と言われ、さすが先生だな、と思った。

僕がそのとき通っていたのは首都大学東京という、そのキャピタルな名前に反して八王子の山の上にある広々とした大学。(今年の4月から「都立大学」という昔の名称に戻ることが決まっている。) ただそこではフランス語専攻ではなく、所属は心理学部だった。
留学を経てフランス語への興味が勝り、心理学にあまり惹かれなくなってしまった僕は仏文科への転部を希望したのだが、先生たちは歓迎してくれたのにも関わらず僕が移ろうとした時点で仏文擁する国際文化コースは定員いっぱい、学生課による「例外は作りたくない」という決定により僕の申し出は却下され、心理学部に残るか、他の空いている学科に移るかの二択になった。僕はどちらも嫌だったので、仏文の先生方からの助言も受けながら、他大学への編入を決めた。ただ、願書提出に間に合わず一年は待たないといけなかった。

年が明け2015年3月、N先生が企画する学生旅行にふたたび連れて行ってもらった。時期としてはシャルリー・エブド事件が起こった直後、なんとなくフランス全体がきな臭くなり出した頃だ。僕にとっては三度目のフランス。長期で行って帰ってきてから初めてのフランスだったから、こんなにすぐに戻って来れたことが何より嬉しかった。その安心感の理由は「自分がここにいたことは嘘じゃなかったんだ」と思えたこと。そしてその3月末をもって僕は首都大学東京を休学、身分としてはフリーターになった。

4月からはバイトに通う毎日、それでもフランス語の勉強は細々と続けていた。そして5月。僕はまた次の試験のための準備をしていた。受けようとしていたのは DALF、しかも最高レベルの C2。あと2点で受かったはずの C1 をもう一度受け直すくらいなら、それはもう受かったことにして一つ上の C2 を目指す方が性に合っていた。前年の反省を活かし、今回はしっかりと対策をして万全の態勢で臨んだところ、100点中50点を取れば受かるところで69点。決して華々しい結果ではないとはいえ、実力で受かったと言える点数だろう。通知を受け取ったときはさすがに、やっぱり嬉しかった。と同時に何かから解放され、投げ出された感じがした。

そして8月。今度は前年のスピーチコンクールで二位になった副賞で、フランスのアンジェ (Angers) に一ヶ月間滞在できることになっていた。2015年だけで二度目、僕にとっては四度目のフランス。この一ヶ月は授業料免除で現地の語学学校に通わせてもらったのだが、どちらかというとバカンス気分だった。
というのも、夏期講習の間、その語学学校の授業はいちばん高くて B2 レベルまでしかなかったのだ。C2 を取った今、長期留学のためにレンヌに渡った時と同じレベルのクラスをもう一度やり直すことにいかほどの意味が?と思わないでもなかったが、いや、学ぶべきことは常にあるはずだと自分に言い聞かせ、最初のうちはまじめに授業に出て、先生にも大変気に入られた。
けれどそのうち授業に顔を出さなくなった。遊んでいる方が楽しかったとか、前ほど追い詰められていないから緊張感がなかったとか、自分で授業料を払っていたわけではないから気楽だったとか、理由はいろいろ考えられるがやはり何より、C2 を取ったことでもうやり切った、という思いがどこかにあったのだろう。結果テストも受けず、この学校のディプロムはもらわずに帰ってきた。

このとき僕は21歳だった。大学を変えることにしていたからすぐに現実の問題になるわけではなかったけれど、まわりの同年代はみんな就職先が決まったり院進の道を選んだり、いわゆる進路選択の葛藤の渦中だった。
18歳で何も考えずにフランス語にのめり込んで、三年で C2 までたどり着いてしまった。そして逃げられなくなったここまでやったらもう、フランス語から離れることはできない。僕には他にもいろいろ可能性があったはずだし、何だってやろうと思えばできたはずだけど、これしか考えられない。そう思えるのは幸福であり不幸で、自由であり不自由だった。これは僕が、自分で自分にかけた呪いだ。

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