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フランス語と僕 Ⅶ. 刻

2014年夏に日本に帰ってきて、フランス語でひとりごとを言うようになっていちばんの変化、それはいわゆるスラングを言うようになったことだった。英語で言うところの f〇ck みたいなものが、もちろんフランス語にもある。それは p〇tain だったり m〇rde だったりするわけだけど、僕はこれが、フランスにいる間は恥ずかしくてずっと使えなかった。

どんな言語の学習者の中にも、この「スラング」の習得から入るタイプが必ずいる。メリットは面白いこと、面白がられて友達が作りやすいこと、友達と話せる分上達が速いことで、デメリットは言葉遣いの境界線が分からなくなること、必要なときに正しい文体を使えないこと。いろんなやり方があっていいと思うのだけど、いずれにせよどちらも使えるに越したことはないと思う。綺麗な言い回しもできるからここぞというときのスラングが威力を持つのだし、逆に汚い言葉も使えるから正しい言い方が映えるのだろう。

僕は臆病な自信家なので、基本的にはずっと間違うのが怖かった。教える立場になった今となっては「たくさん間違えて赤っ恥をかくことが上達には不可欠なのである」みたいな偉そうなことを言っているが、もとはと言えばあまり歓迎できない類の完璧主義者だったりもする。文法一つ、発音一つ間違うのも嫌で、間違えようものならひたすら悔しがった。だからスラングにも “正しい使い方” なるものがあるような気がしていて、そこから逸れてしまうことへの恐怖からか、いまいち手が出なかった。いや、もっと正確に言えば、自分の言葉じゃないのにという、他人の家に土足で入るような申し訳なさに近い感情があったのかもしれない。

それが自分のホームに帰ってきた途端、解放された。あくまでひとりごとなので誰が聞いているわけでもない。一人称も二人称も自分という状況で、目の前で電車のドアが閉まったり、家を出てしばらくしてから忘れものに気付いたりすると口をついて、ある時は p〇tain、ある時は m〇rde と出てくるようになったのだ。(この二つの違いを説明するのは難しい。p はより刹那的で m はより内省的な印象があるけどむしろ逆な気もする。うーん…)

それはさておき外国語が「身につく」というとき、それはだいたい「身についた」という風に過去形で認識される。いつの間に使えるようになった表現、いつの間に無理なく発音できるようになった音、この単語が言えるようになって三周年!記念日みたいなものもあっていいはずなのだが、自分の語彙のどこをあたっても明確にいつから一緒にいるのかわかる単語はいない。いつの間に身について、気づいたら使えるようになっている。

じゃいつから僕は “フランス語” を身につけたのだろう?今の状態だけ見れば、きっともう「身についた」。文法用語で言えばある種の完了だ。でもいつから?何月何日から?外国語で夢を見るようになったら、その言語は身についたことになる。と言う人がいてなるほどと思った。確かにそう。夢の中でまで文法に気を付けて構文を作っていたりすると我ながら笑ってしまう。

でも僕にとって一つ大事なタイミングをあげるとすればこの、スラングが口をついて、無理にではなく自然に出てくるようになったときがターニングポイントだったようにも思える。“誰かの言葉” だったものがようやく “自分の言葉” として刻まれたのだ。

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