言語学する文法02 ~名詞~

数ある文法用語のなかでも一番よく耳にするのが「名詞」じゃないかな、という気がします。基本中の基本なのだから、これがわからないと困る。でも「名詞って何だか、説明できますか?」というとほとんどの人が「えー、ものの名前ですか?りんごとか?」のように答えます。もちろん外れてはいませんが、十分かというとかなり不十分だと言えます。なぜならご存知の通り、名詞はものの名称だけでなく「愛」や「認識」などどいったいわゆる “概念” も表すことができるからです(「概念」も立派な名詞です)。

こうなってくると「名詞とは何か」の定義がいかに難しいかという壁に突き当たります。「ものの名前」というよりは「概念または観念を表す言葉」と言った方がまだ正確なのですが、ただ問題は、この “概念または観念” がそれこそなんのこっちゃとなりかねないということです。「あぁ、概念の名称ね~なるほど!」と言ってくれる人なら話は早いのですが、哲学専攻でもなければ読書家でもないような普通の中学生諸君が「名詞には冠詞をつけなくちゃいけなくてね」と呪文のごとき説明とともに英語を習ったりしているような状況を考えると、この問題は看過できません。

最初のやりとりに戻ってみましょう。

A「名詞って何だか、説明できますか?」
B「えー、ものの名前ですか?りんごとか?」

ごく普通の、ありがちなやりとりですが、ここには注意すべき問題がたくさん潜んでいます。まず、Aさんは「名詞」の定義を聞いているのに対し、Bさんはそれに「名前」という別の “概念” を持ち出してしまっています。さらには「もの」というのも実はけっこう曖昧です。形のある実体を「もの」と言うのであれば、見えない「空気」は「もの」ではないのでしょうか。かと言って、「空気」は「愛」ほど抽象的なものとも思えないし…と、どんどん線引きが難しくなってしまいます。

昨年公開された映画に『きみの鳥はうたえる』という作品があります。これはもちろんその映画の “名前” ですが、“名詞” かというと微妙なところ…。「きみの鳥はうたえる」は一つの “文” で、「きみ」と「鳥」は名詞だけど「うたえる」は動詞だよなぁ、と考えるのが普通ではないでしょうか(ほんとうは “文” という単位も取り扱い注意なのですが、その話はまた機会があれば)。ただ、「『きみの鳥はうたえる』観た?」という文を考えれば、この中ではこれは映画という “もの” の “名称” として、“名詞” として考えられるような気もします。

だんだんこんがらがってきました。以上の例を見てわかったのは、たとえ同じ言葉でも、それが使われる文脈が異なれば迂闊に品詞分類できない、ということです。では、いったい何をもってそれが名詞だと言えるのでしょうか? ここに明確な答えを出すのは極めて困難ですが、僕なりの解決策があるのでお教えします。そのヒントはみなさんも知ってるあの「遊び」です。

りんご → ゴリラ → ラッパ → パリ → リトマス試験紙 → シマウマ → マット → 鳥 → 理科 → 柿 → きみの鳥はうたえる → ルビー …

そう、「しりとり」ですね。あくまで大雑把な基準ですが、「しりとりに使って違和感のないもの(許容範囲ギリギリのものも含めて)」は “名詞” と言えるのではないかと思います。例えば「ルビー」の次に「ビル」と来ればOKだからビルは名詞だけど、「びくびく」と言ったら「あれ、なんかおかしいな」となるのでこれは名詞ではないということです。ところで「しりとり」ももちろんしりとりに使えますが、この「とり」は「鳥」ではなく「取り」、“尻” (名詞) を “取る” (動詞) で “しりとり” (名詞) という合わせ技になっているのですね。

では「名詞 ≒ しりとりに使えるもの」としたところで、このような言葉の持つ性質とは一体どのようなものなのでしょうか?これも僕なりのことばで表現するなら、名詞とは「頭のなかに住所を持っている言葉」です。人間の脳内には無数の言葉が蠢きひしめき合っていますが、その全てが同じようにそこにあるのではありません。走っている猫を見て「猫が走っているなぁ」と思うわけですが、その時、「猫」と「走る」は同じように言葉の引き出しから出てくるわけではないのです。「走る」がその動的なイメージにつられて出てくるのに対し、「猫」の方は僕たちの頭のなかにある程度固定された “あの動物” のイメージに呼応して、言うなれば脳内の哺乳類県四足動物市猫番地という決まった住所から取り出されているのです。

さて、名詞にはどんな特権があるでしょう?僕はそれは「愛されること・憎まれること」だと思っています。頭のなかに住所を得てはじめて、僕たちはそれを直接認識して、好きだとか嫌いだとか言うようになるのです。

たとえば僕は「木漏れ日」という日本語が好きです。木漏れ日そのものが美しくて好きなのもありますが、“あれ” にわざわざ名前を与える日本語の感性が好きとも言えます。というのも、「木漏れ日」という一言、たった一つの名詞であれを表現できるのは日本語だけだと言われています。つまり他の言語で “木漏れ日” を表現しようとすると、「木の葉越しに見える日の光」などと説明的な言い方に頼らざるを得ないのです。日本語ではこれが一言で言える。そうするとどうなるか?人と同じです。そこにいる、そこにあることが強く認識される。そして誰かに好かれたり、逆に嫌われたりするのです。

そういう意味でも “名詞” は、やはり少し特別な存在と言えそうですね。次は何にしようかなぁ、続きをお楽しみに。










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