言語学する文法01 ~人称~

さて、「言語学する文法」シリーズ、記念すべき(?)第一回は “人称” について。人があっての言葉なのだから、まずはそこから始めましょう。

人称、と聞くと何を思い浮かべるでしょうか?あぁ、一人称が「私」で、二人称が「君」で、三人称が「彼」とか「彼女」…という風に考える人が多いのではないかと思います。確かにこの説明は人称の概念の一部を捉えてはいます。ただ、今回はここに潜む問題点について言及したい。僕は、この説明は二重の意味で不正確だと思っています。一つは人称概念を日本語に結び付けるときに生じる無理、もう一つは、ヨーロッパ言語における人称の在り方そのものついての理解不足です。

ⅰ, 日本語に “人称代名詞” はない

一人称は「私」…と言うと、ちょっと待った!俺は?僕は?アタイは?わしは?という人たちが出てきます。収拾がつきません。このように、「日本語には一人称を表す言葉が無数にある」といった言説はみなさんにも耳馴染みがあるのではないかと思います。ここにちょっとメスを入れてみましょう。

確かに、「一人称を表す言葉」が多いのは事実です。夏目漱石の『吾輩は猫である』が英訳すると "I Am a Cat" になってなんだか味気ない、というのも日本語特有の人称を表す言葉の豊かさが削ぎ落されてしまっているから、とも言えるでしょう。でも、それは果たして一人称だけでしょうか?

日本語人称の不可思議は二人称にも現れます。外国語を勉強すると、和訳などの問題でしょっちゅう「君は…」「あなたは…」という文言を目にします。でも、考えてみてください、ふだん日本語で喋っていて、「君」あるいは「あなた」と口にする機会はどれほどあるでしょうか?目の前に誰かがいると想像してみましょう。それが親しい人だったらどうでしょう。“名前” で呼びませんか?親しくない人だったらどうでしょう。「お客さん」とか「先生」とか、“立場” で呼びませんか?

また、人称代名詞の代わりに日本語でしばしば用いられるのが、「こちら」、「そちら」などの “方向” を表す言葉です。「私はわかりません」と言うところを「こちらではわかりかねます」、「あなたが言った」と言うところを「そっちが言ったんだろう」とか「それを言ったのはお"前"の“方”だろう」とか。とかく、日本語では “方向”、すなわち “位置・立場性” が重視されます。そもそも「あなた」という呼び方も、もとはと言えば「彼方」、つまり “あちら側” を指す言葉が由来です。だから、「誰?」と聞きたいときも「どなた?」とか「どちら様?」になるのですね。

この、方向性や立ち位置、距離感などを絶妙に表現するのが日本語の「こそあど言葉」と呼ばれるものです。これはどの言語でも同じように区別しているわけでは全くなく、たとえばフランス語では「これ」も「それ」も「あれ」も ”ça” と言います。そしてもちろん「こそあど」が問題になるには一、二人称だけではありません。三人称、つまりその場にいない人のことを、日本語では何と言うでしょうか?「彼、彼女」と呼ばなくもないとは思いますが (「彼」も元を辿れば「あれ」を指す言葉です)、やっぱりいちばん多いのは “名前” か、あるいは「あの人」「あいつ」と言いませんか?

それに、ときには自分の名前を一人称に用いたり、はたまた「僕」というのが男の子への呼びかけ(つまり二人称)だったりと、人称言葉が入れ替わるのも日本語特有の(少なくともヨーロッパ言語にはない)現象です。

こう考えると、「人称代名詞」として括れるものは日本語には存在しない、僕はそう思います。「代名詞」とは読んで字のごとく「他の名詞の代わりをするもの」ですが、日本語にはそういった使い方は少なく、個別の名称をそのまま使ったり、「こそあど言葉」を用いる方がずっと多いからです。だから「私」も「君」も「朕」も「汝」も、それぞれまったく別の、一個一個独立した「名詞」であると捉えた方が、合理的だと思うのです。

ⅱ, ヨーロッパ言語の人称とは

ここから先は、フランス語しかまともに話せない僕の、ヨーロッパ言語についての限られた知識をもとに話を進めます。何か認識の足りないところがあれば、ご教示くだされば嬉しいです。

さて。英語の世界は比較的シンプルでした。彼は "he"、彼女は "she" と覚えればいいし、人ではなくモノだったら "it" という便利な指示代名詞もあります。ですがフランス語には、"it" と同様の機能を持つ代名詞というのはありません。先ほど紹介した "ça" などいくつかそれっぽいのはあるのですが、全く同じかというとそうではない。"it" の機能を、複数の代名詞によって分担している感じです。それに厄介なのが、英語の "he", "she" にあたる "il", "elle" という言葉が、「彼」「彼女」だけでなく「それ」という意味にもなるということです。ご存知の方も多いかもしれませんが、フランス語には男性名詞と女性名詞が存在します。この違いのおかげで、男性名詞単数形を "il"、女性名詞単数形を "elle" で受けることができるんですね。例えば「 "Il est bon, ton café ?" 君のコーヒー、(それ)美味しい?」のように使えるので、"il = 彼"、"elle = 彼女" という一つ覚えは危険とも言えるわけです。

だからこそ、三人称は「一人称でも二人称でもないもの」という覚え方は、ある意味やはり強力なのです。これなら、人かモノかは気にせずに、一でも二でもなかったら三人称、と覚えてしまえるわけですね。このように、三人称を具体的に規定することは難しく、「~でないもの」と定義するのが精一杯。三人称はせいぜい消去法によって語るほかないし、裏を返せばその程度の存在ということです(夢に三人称が出てきそうで怖い)。

つまり積極的に定義すべきは "一人称" と "二人称" です。これを「私」とか「君」、「あなた」と覚えるのは好ましくないというのは前述の通りですが、では一人称と二人称とはいったい何者なんでしょう?

日本語には「人称代名詞」はないと説きましたが、人称という考え方自体はもちろん適応可能です。少し例を考えてみましょう。

A 「あの本もう読んだ?」
B 「あぁ、買ったよ。よかったら貸そうか?」

ここに「人称代名詞」があるかと問えば、答えは否です。ただ、人称の影は見え隠れしているわけです。フランス語に訳してみましょう。

A " Tu as déjà lu ce livre-là ? "
B " Ah, je l'ai acheté. Je peux te prêter ça si tu veux ? "

この太線にしたものが本家本元の人称代名詞です。たったこれだけのことを言うのに、これほどたくさん人称代名詞を使わないといけない。そんなにコストのかかるものなのでしょうか?僕らが思っているほど、それは大げさなものなのでしょうか?あまりよくない仕方で、再和訳してみましょう。

A 「君はもうあの本を読みましたか?」
B 「あぁ、私はそれを買いました。君が望むなら君にそれを貸しましょうか?」

この、最初の日本語と再和訳版との乖離に、人称を考えるにあたってのミソがあります。どう見ても後者は不自然です。こんな不自然なコミュニケーションをフランス人はしているのか?というとそんなわけはなくて、たとえこれだけ人称代名詞を使っていようと、ニュアンスとして近いのは圧倒的に前者です。ではいったい、「人称代名詞」のはたらきとは何なのでしょうか?何のために、何度となく顔を出すのでしょうか?

その答えは、僕なりに一言で言えば “確認” 、それも相互の確認です。なにも毎回「私」が「君」がと、そのまんまの文字(あるいは音声)情報として伝えたいわけではないのです。そうではなく、これは "今この話をしている私" が言っていることで、同時に "今この話を聞いている君" に関係のあることなんだよ、と、人称代名詞を口に出す度に、確認し合っているのです。

もちろん、これがあまり重たくならないヨーロッパ言語特有の背景というのもあります。統語法的に主語を置かなくてはならない等の決まりも然ることながら、それにも増して重要なのは “短さ” です。そしてこれは綴りのではなくむしろ ”音" の短さ、つまり "言いやすさ" が寄与しているのです。例えば先ほども使ったフランス語の "je" (一人称単数主格) や "tu" (二人称単数主格) や "te" (二人称単数目的格) などは、どれも一音節で言えてしまいます。それに場合によっては子音だけで発音されることもあり、言ってみれば "発音コスト" がとてつもなく低いのです。これに対し「私 wa-ta-shi」や「あなた a-na-ta」は三音節、三倍近いコストがかかるので、必然的に省かれやすくなります。

じゃ日本語では相互の "確認" は行われていないのかというと、 まったくそんなことはありません。さっきの話の続きを考えてみましょう。

A 「え、貸してくれるの?ありがとう!」
B 「もちろん。こないだおごってもらったしね。貸してあげるよ」

これはほんの一例ですが、日本語では「やりもらい」の表現が大きな役割を果たしていると言われています。相手との関係や、話している事柄がそれぞれにもたらす作用などを鑑みて、なかなかシステマティックかつ巧妙に、「くれる」「もらう」「あげる」などの補助動詞が活躍します。長くなるので深入りはしませんが、他にも日本語では文字通り "空気を読む" ことで、人称代名詞に頼らない様々な方法で確認をし合っていると言えます。
(このように、人称に限らず言語のあらゆる問題を考える上で "文脈" に目を向けることはとても重要です。文脈のない発話、というのは普通考えられないわけで)

少し遠回りしましたが、「一・二人称とは何なのか?」という問いについて答えが見えてきました。それは取りも直さず、“コミュニケーションの参加者” であるということです。例えば今、この文章を書いている "僕" と、それを読んでいる "あなた” の間に、コミュニケーションの場が発生しています。この「場」において、“発信者” をつとめる存在こそが一人称の正体であり、“受信者” こそが二人称によって表される存在なのです。また、発信者である主体の判断によって一人称は拡大され得るし(一人称複数 「私たち」 )、同様に、どこまでを受信者、言い換えれば "宛先" に設定するかで二人称の範囲も広がります(二人称複数 「あなたたち」)。

僕は最近、人称概念を恒星系に例えることを思い付きました。わかりやすく太陽系で考えると、一人称は太陽です。太陽系というコミュニケーション空間において、太陽こそが光源、すなわち「発信者」なのです。そして二人称は、潜在的には全ての惑星および小惑星や衛星です。太陽系という場にある限り、いつでも「受信者」になる、つまり光を受け、太陽からのメッセージを受け取る可能性があるということです。では三人称とは誰か?これは遠く彼方、アンドロメダ銀河にある星々かもしれないし、気まぐれに太陽系を訪れるハレー彗星かもしれないし、ひょっとしたら、地球の都会で夜を過ごす一人の少年かもしれません。おおざっぱではありますが、このメタファーにおいては太陽の光を直接浴びない存在は全て三人称になり得るのです。

こう考えると、一つ疑問というか不満が浮かび上がります。それは「一、二、三人称」という呼び方についてです。もちろんこれは英語などで "first, second and third person" と呼ぶからなのでしょうが、彼らネイティブスピーカーは物心ついたときから「人称代名詞」と慣れ親しんでいるわけです。それはちょっとしたシード権みたいなもので、外国人である僕たちがこれを理解しようとしたとき、同じ名前を使いまわす必要はないと僕は考えています。なぜなら「一、二、三」という序列はCDの売り上げランキングTOP3のような順位か、あるいはどれも対等な、ジャンケンみたいな三つ巴の関係を想起させてしまうからです。ここまででお分かりのように、一・二人称と三人称の間には「コミュニケーションに参加しているかどうか」という本質的な隔たりがあります。だから例えば “発人称”、“受人称”、“他人称” などと言えば幾分意味合いは汲み取れるのですが、如何せんあまりかっこよくない…。どなたか、 いい名前があったら教えてください。

ということで、長くなりましたが “人称” についてでした。もし、今まで知っていた人称の考え方と少しでも違う見方に触れていただけたのなら本望です。次回は気が変わらなければ “名詞” について取り上げようと思います。

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