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フランス語と僕 Ⅵ. 環

八月が九月になるときに出発し、翌年の七月が八月になるときが帰国のタイミングだった。ちょうど十一ヶ月、だいたい三百三十日、季節が一巡する間、日に日に伸びて行った弧はゆっくりと、出発地点を目指していた。

期限をともなう移動はいつもカウントダウンと共にある。僕も日々、現在を生きているつもりでも、心はどこかいつも同じ時点にピン留めされていた。あと三ヶ月、あと二ヵ月、、徐々に目盛りは減っていき、あと一ヶ月くらいのところでようやく実感が湧いてくる。あぁ、帰るのかぁ。自分の中でどこまでもその存在感を小さくしていた場所が、はるか東のちっぽけな点でしかなくなっていた自分の国が、また目の前に現れる。

帰国を直前にした当時の気持ちをよく覚えている。帰りたくない。でも帰る準備はできた。これがその時の率直な感覚だった。フランスでの生活が、友達が、空気が、言葉が気に入って、まだもう少し、いられるものならいたかった。でも残ったところでやるべきこともないような気がした。僕の場合、フランス語以外とくに目的もないただの語学留学だった。一年でやれるだけのことはやった。あとはどこにいたって同じだろう。

でもいざ帰国当日になると悲しかった。日本を離れるときは少しも寂しくなかったのに、フランスからの帰りの飛行機に乗ると窓の外を眺めながら泣いた。いま自分が踏んでいるのは飛行機の床だ。次、この国の地面を踏めるのはいつになるだろう?その不確かさに、まだ耐えることができず泣いた。

まったく信じられないことに、飛行機は本当に日本に着いた。近づいているのは機内のモニターでずっと見ていたのでわかっていたけれど、僕はまだこの国が存在することを、そこに自分がいることを信じられないような気持ちでいた。飛行機前方の扉が開いて、ぞろぞろと乗客が降りて行く。それに続いて自分も降りる。まず、久方ぶりに浴びる襲うような湿気に打ちのめされた。季節は夏だ。次に僕を驚かせたのはラーメンの匂いだった。決して嗅覚は敏感でない僕でもはっきりとわかる、空気に乗ってやってくるラーメンの匂い。湿気のせい?僕の体はじりじりと、この国の仕様に戻って行った。

そして何より、(わかっていたことだけど) 日本語しか聞こえない。二年ぶりに行くカフェの Wi-Fi のパスワードをスマホが覚えていたりする。僕の脳も、一年間あまり使っていなかったはずの言語に驚くべき速さで対応した。人とぶつかったときに咄嗟に "Pardon" と言ってしまう以外には、とくに何のエラーも起こさなかった。フランスに着いた直後はあんなに挙動が遅く、何を読み込むにも時間と手間がかかってしょうがなかった脳内PCは、一切のストレスなく日本語を取り込んだ。

羽田から品川へ、品川から地元へと向かう電車の中で、僕の頭はバグった。中吊り広告がこんなに暴力的だとは知らなかった。一度に取り込む情報量が多すぎたのだ。見た瞬間、聞いた瞬間に理解されてしまう日本語は、津波のように僕の頭の中に流れ込んで、その内部を埋め尽くそうとした。でもそこには、やっとこさ竣工間近のフランス語で出来た建物があった。僕はただただ、それが流されてしまわないか不安だった。

330° まで伸びていた弧は、出発点に接合されて大きな円周になった。" La boucle est bouclée "、円は閉じられ、何かが完結した。閉じられた円はひねってちぎられ、どこかに飛んでいってしまったようだった。何があったんだろう?「君は丸々一年、夢を見ていたんだよ」そう言われれば、そうなのかと、うっかり信じてしまいそうなほどだった。

数日が経って、僕の脳みそはすっかり浸水した。建物は流されないまでも、今にも沈没してしまいそうだった。僕は具体的な対策を考えた。水は取り除けないから、せめて建物のまわりに、防波堤代わりの塀を作ろう。そこには水が浸入して来れないような、言葉たちの居場所を作ろう。

そうして僕はフランス語で “ひとりごと” を言うようになった。今日は何着ていこうかな、明日は雨が降るらしいな、電車はまだかな… そんな他愛もない事柄をあえてフランス語で口に出すようにした。これは夢の中でフランス語に浸かっていた頃を思い出すための僕のせめてもの抵抗だった。

そしてなんとこれが上手く行った。塀は少しずつ高さを増して建物を覆うまでになり、水も掻き出されていった。建物はあまり損傷も受けていないみたいだった。こうして僕はバイリンガルになった。浸水対策だったフランス語でのひとりごとは習慣になってしまい、未だに抜けていない。

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